教主からのメッセージ

万策尽きた、その先に

暑い盛りですが、皆様お変わりはありませんでしょうか。

まだまだ厳しい暑さは続きますが、七日の立秋を過ぎれば、季節の上ではもう「残暑」とよばれます。

朝夕の風にほんの少し涼しさを覚えたり、ひぐらしの鳴く声にさみしさを感じたり、道ばたのつゆくさの可憐な色合いに目をとめたりと、昔から日本人は季節のちょっとした移ろいを大切にすることで、情緒豊かな心を養ってきました。

世間では様々な事柄がめまぐるしく動き、目の前のことに一喜一憂、右往左往しているのが実状かと思いますが、そのような時にこそ、この大自然の静かで確実な歩みに意識を置いて、自身の心のよりどころとするよう心がけて参りましょう。

四期の運行は、春 夏 秋 冬 如何なる文明物理化学の力にも及ばざる事の、大自然であります、万事も。

さて、今年の夏ほど、世界中の人々が、これからの人類の行く末に思いをはせている時はないのではないでしょうか。

新型コロナウイルスによるパンデミック、ワクチンへの不安と錯綜する情報、東京オリンピック、そして先の大戦の記憶……
まるで一つ一つの事柄が、目をそむけるな、現実を見よ、そしてあなた自身が本当に望む未来とは何か――そのような問いとなって、私たち一人一人に突きつけられているように感じます。

先日、名古屋会場主催で行なわれました第二回Web講演会において、北川理事長と名古屋第一会場の加藤万事さんの対談がありました。

加藤さんはお医者様という立場から、文字通り現場で感じた新型コロナウイルスの怖さ、日本の医療体制についてなど、とてもためになるお話をたくさん頂戴しましたが、中でも次のお言葉が私にとってとても印象的でした。

「医療は科学ですから、万策尽きることはあります。けれども信仰を持つ者であれば、たとえ万策尽きたとしても、祈ることができる。これはとても大きな違いです」。

よく世間では「もう祈るしかない」という言葉が往々にして聞かれます。それはその通りなのですが、少し誤解も含んでいる使われ方をされている場面もあると、私は思っています。

加藤さんのおっしゃるように、「万策尽きて」も、私たちは祈ることができます。では、祈るだけなのか。祈って何も現実に対応しないのが信仰者なのか。そうではありません。万策尽き、もうダメだと、あとは神仏に託するしかないと、その必死の心持ちで神仏に向かい、一心に祈ることで、人は「万策」を超えた「策」が見えてくるのです。

それは、もしかしたら医療という方法ではないかもしれません。言葉がけかもしれません。ほんのささいな日常の振る舞い方かもしれません。あるいは、何もこちらからは動いていなくても、周りの動きが変わってくる、その変化に気づく感性かもしれません。それは状況により千差万別で、それこそ「神のみぞ知る」という領域ですが、いずれにせよ必死に祈ることで見えるものがある、次の道筋が見える、光が見える――信仰とはそういう世界なのです。

それが文字通り「超作(ちょうさく)」ということです。

但し、これもやはり往々世間で誤解されているように、困ったことが起きた、では神頼みだ、あそこの神社がご利益ある、あの仏様にお願いすると聞いてくれると、気持ちばかりのお賽銭を捧げ、お守りを買い、それで「お願いしたのに、何もなかった」などとうそぶくのを信仰と勘違いされては困るのです。

もちろんそういった素朴なお願いから入る信仰心も決して否定はいたしませんが、いざという時に神仏に通じるためには、やはり普段からの祈りです。

常日頃から神仏を敬い、ご先祖を尊び、一家そろって神前仏前に手を合わせる敬神崇祖の生活を営む中から、初めて「万策尽きた」後の「超作」は見えてくるのです。

そのためにこそ、今回の講演会のテーマにもありました「3密から三密」へ。

普段の日常生活の一挙手一投足、身と言葉と行ないのすべてを神仏の意にそったものへと整える。

いわばその調整の機会としての「まつり」、神仏と直に向き合う祭祀において心から祈りを捧げることで「三密」へと自身を導いていく。その結果、大自然の運行と自分の「間(ま)」が釣り合い、いつのまにか物事がうまく運ばれていく人生へと生まれ変わる――
そのような神仏と共にある生活、「神人世活(しんじんせいかつ)」へ、どうかこのような時だからこそ、多くの人を導いていただきたいのです。

神人世活とは信神世活と解してもよい。所謂宗教世活を意味するのであるが、宗教という言葉は不徹底であり而も神祇思想や随神世活には適切でないものがあるから之を用いない。

要するに神と人との交流世活を謂う。俗に信神というも神人合一というも此の謂に他ならぬ。常に神仏を信仰し、其の恵みと導きとによって現実生活を律せんとするもので、個人の日常生活から天下国家の経綸に至るまで、神意を奉体し神慮に逸脱せざらんことを期すものである。

いつも引かせていただいております道祖の『真行』の冒頭の一節ですが、あえてこの時に再度、皆様へお伝えさせていただきます。

いま世の中は矛盾に満ちています。何が正しく、何が間違っていて、その中で自分自身は何を選択していったらよいのか、途方に暮れているのが現状ではないでしょうか。そのような中、声高らかに自身の正しさを主張し、他を排撃してやまない人たちがあとを絶ちません。

道祖は、このように生前、よくおっしゃられていたそうです。「世の中には矛盾があっていいのだよ」と。

これは何も安易な現状肯定などではなく、矛盾に満ちた世の中において、手頃な解決策を振り回して他を否定するような楽な生き方をやめよと。むしろ、この矛盾こそ世の中の真理と受け止め、一つ一つの場面において「中道」を探れと。そのための途方もない努力を決して惜しんではならないという、道祖の断固たる戒(いまし)めのお言葉と受け取るべきなのです。

菩薩とは、決して自身の悟りを優先せず、世の中の全ての人が悟りを得るまで、私は仏の世界に行かないと決意し、その行動に身も心も捧げている人たちのことです。

菩薩の元々の言葉は「ボーディ・サットバ」、「ボーディ」とは涅槃(ねはん)、悟りの意味。「サットバ」とは、求める者、探求者という意味です。

つまり菩薩とは、悟りを求める者、求め続ける者のことであり、決して自己が全て正しいとうそぶく、にわか悟りの者を指していう言葉ではないのです。

皆様ご自身、この機会によく自己をかえりみてほしいのです。自身の正しさを押しつけ、他との会話を閉ざしていないだろうか。あるいは、自分なんてと必要以上に自己を卑下し、他を悟りへと導く営みを止めてはいないか……

菩薩とは、自他すべての悟りを「求める」者です。求める営みを止めた途端、それは地獄へも畜生へも真っ逆さまに落ちます。いわゆる六道輪廻です。

この六道とは、何も死後の世界のことだけではありません。自己の正しさのみを主張し、他を排撃してやまない怒りの心は地獄そのものです。欲しい欲しいと欲望に身を委(ゆだ)ね、まだ足りない、まだ足りないと不平不満ばかり言い立てるのは餓鬼の世界です。

そして、不平も不満もないけれど、そのかわり生きる希望も目的もない。ただ何となく生きて、ただ何となく死んでいく――これは「人間界」で、やはり六道のうちです。悟りとはほど遠い世界です。

どうか会員の皆様におかれましては、今一度自身の立ち位置を見つめ直してほしいのです。信仰の入り口に立った時は、菩薩になろう、仏にもなろうと意気込んでいたはずです。それがいつのまにか、不平が増え、不満が増え、あるいは悟りへと向かう意欲がなくなってはいないでしょうか。

いま世の多くの人たちが、矛盾に満ちた混迷の中で道に迷っています。その「万策」尽きた中に一筋の光を見出すのは、私たち一人一人の役目です。他の誰でも無い、私自身が光となると、その決意と行動に人は希望を見出すのです。

かむながらのみちとは、神と共にある道です。自他共に悟りを目指す菩薩となり、世の中を照らしていく道です。

最後に、これも私がよく引かせていただく道祖のお言葉をもって、今月の「みさとし」とさせていただきます。

身一度、解脱の聖門を潜らば、よろしく四聖に生きよ。偽られても、欺かれても、自他の不徳を神仏に懺悔し奉り、なおその者の上に幸あれかしと祈り続ける善念、及第すれば四聖の入り口である。落第すれば六凡に常住する。六凡に常住する者は悪念なるが故に四苦八苦の地獄に落ちる。

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