会長からのメッセージ

霊魂の覚醒

この度の能登半島地震において犠牲となられた方々に対し深く哀悼の意を表します。

また、いまだ被災地において苦難の生活を余儀なくされている方々に対しお見舞いを申し上げますと共に、1日も早い平安が訪れることを心よりお祈り申し上げる次第です。

年頭、まさに1月1日という日に、私は元旦祭で皆様に本年「甲辰(きのえのたつ)」の意味するところ――文字通り「大地が揺れる」ということを申し上げましたが、その直後の出来事でした。帰りの車中、突然アラートの音が響き渡り、文字通り皆が目を覚ましました。

もちろん思い起こされるのは、13年前の東日本大震災。あの時も厳しい寒さの中でした。

まして被災地は富山の会員やその関係者も多く住む北陸地域。一瞬で緊張と不安が高まりました。

津波、火災など、次第に明らかになっていく被災地の状況。さらに翌日、被災地へ向かおうとしていた自衛隊機の事故は目を覆うばかりの出来事でした。ただ、その事故の瞬間から日航機の乗客、乗務員の取った秩序ある行動、その思いやりと自己犠牲の精神は世界中の賞賛の的となりました。思えば、これも東日本大震災の際、私たち日本人に向けられた眼差しそのものでした。

出来事には必ずや意味があります。すべてを「天意」として受け止め、行動すること。これが信仰者としての基本です。

そして出来事とは、天(時)・地・人、良きにつけ悪しきにつけ、この3つをポイントに見ていく必要があります。

元旦という、世界中の人々が新しい年の門出を祝うその日に、能登半島を中心とした北陸――ここはかつて大陸との行き来で栄えた日本の「玄関」とも言える地域でした。そこに地元の人たちだけではなく、全国から多くの若い人たちも帰省して、温かな家族団らんの時を過ごしていた中での出来事でした。

今はまだ被災の苦しみや悲しみのまっただ中ですので、その「意味」についてふれることは後日の機会と致しますが、昨年コロナ禍に一つの決着がつき、どこか安堵の念というか、のど元過ぎれば熱さ忘れる――もちろん人は否定的な出来事を忘れ、苦しみよりも喜びを選択するという、神様が本来的に与えてくださった資質を持っている生き物ですが、同時に忘れてはいけないものも忘れてしまったのではないか。

あの時の教訓――それはコロナ禍だけでなく、東日本大震災、あるいは阪神淡路大震災など、この約4半世紀で日本人が体験した様々な出来事を通して得た教訓、学び、誓い、本来やるべきところに今一度、急ぎ立ち返れというメッセージを受け取ったと、これは私たち信仰者のみならず多くの人が感じたのではないでしょうか。

これまで私たち人類は、特に産業革命以降、飛躍的な科学の発展を通して、常に「もっと良い暮らしを」「もっと豊かさを」と、幸せの追求、いかに幸福の質と量を上げるか、というところに重きを置いていました。

しかしここからは、「より幸せな暮らし」ではなく「当たり前の暮らし」、人々がこれまで当たり前と思って享受してきた、新鮮な水、きれいな空気、温かな家、そういったものを維持する、当たり前が当たり前であることへの努力が必要になってきた時代に入ったことを如実に感じます。

そのような意味で、今回このような否定的な出来事を、しかも「甲辰」という十干が改まり、人々が新たな生き方、新しい枠組みを創り出していく、その年頭に頂戴したことは、やはり大きな意味のあることと受け止めざるを得ないのです。

まして私どもかむながらのみちにとって、今年は新道場が建ち上がり、多くの皆様と祈りを共にすることができる。では、その祈りはそもそも何のためか――私たちに神仏から与えられた使命、役割、責務は、きわめて重く尊いものがあるようです。

神霊(しんれい)の認識(にんしき)

神霊(しんれい)は五官(ごかん)を以(もっ)て確認(かくにん)することは困難(こんなん)であるから一般(いっぱん)には唯(ただ)実在(じつざい)するものと信(しん)ずるだけに止(とど)まるを常(つね)とする。恰(あたか)も或(あ)る食物(しょくもつ)の中(なか)にビタミンAが多(おお)いとかBが少(すく)ないということを聞(き)いても自(みずか)ら実験(じっけん)するわけにも行(ゆ)かず唯(ただ)専門家(せんもんか)の研究(けんきゅう)の結果(けっか)を無条件(むじょうけん)に信用(しんよう)しているに過(す)ぎないと同様(どうよう)である。若(も)しそれで何等(なんら)の疑(うたが)いなく絶対(ぜったい)信仰(しんこう)し得(う)ればそれでもよい。然(しか)し乍(なが)ら何等(なんら)かの方法(ほうほう)で実験(じっけん)せねば承知(しょうち)の出来(でき)ないものは、それだけの方法(ほうほう)を尽(つく)すことが必要(ひつよう)である。

偶然(ぐうぜん)の機会(きかい)に神秘的現象(しんぴてきげんしょう)や奇蹟的事実(きせきてきじじつ)に遭遇(そうぐう)したり或(あるい)は霊媒(れいばい)に対(たい)する憑依現象等(ひょういげんしょうとう)を見(み)ること等(など)があったなら、幾分(いくぶん)は霊魂(れいこん)の覚醒(かくせい)を得(え)られるものと信(しん)ずる。又(また)特(とく)に神霊現象(しんれいげんしょう)の研究等(けんきゅうとう)を行(おこな)えば各種(かくしゅ)の人霊(じんれい)、時(とき)とすると神霊(しんれい)に属(ぞく)するものに接(せっ)することも出来(でき)ないではない。

然(しか)し乍(なが)ら我等(われら)が信仰(しんこう)の対象(たいしょう)たるべき神霊(しんれい)に接(せっ)する道(みち)は斯(か)かる研究的(けんきゅうてき)或(あるい)は猟奇的態度等(りょうきてきたいどとう)であってはならぬこと勿論(もちろん)である。

至誠(しせい)を以(もっ)て神明(しんめい)に対(たい)するのが本道(ほんどう)である。之(これ)には禊祓鎮魂等(みそぎはらいみたましずめとう)の修法(しゅうほう)から祭祀等(さいしとう)の形式(けいしき)により接(せっ)する道(みち)と非常絶対(ひじょうぜったい)の極所(きょくしょ)に立(た)ち熱誠(ねっせい)以(もっ)て神鑿(しんさく)を乞(こ)い願(ねが)う等(とう)の場合(ばあい)もあり、又(また)稀(まれ)に虚心天真(きょしんてんしん)の境地(きょうち)に於(おい)て期(き)せずして接神(せっしん)の機会(きかい)に恵(めぐ)まれることもある。

純真誠実(じゅんしんせいじつ)なるものは常(つね)に神仏(しんぶつ)と共(とも)に在(あ)り、無意識(むいしき)の中(なか)にも神仏(しんぶつ)の恩寵(おんちょう)を受(う)けているのであるが、我等平生罪穢(われらへいぜいつみけがれ)の多(おお)いものが時(とき)に尊(とうと)き神霊(しんれい)に触(ふ)れると頭(あたま)から電撃(でんげき)を受(う)けた様(よう)な霊感(れいかん)を覚(おぼ)えたり、或(あるい)は心身(しんしん)の穢(けが)れを絞(しぼ)り出(だ)すが如(ごと)く涙(なみだ)の止(と)め難(がた)きこともあるが、又時(またとき)に平静無我(へいせいむが)の境地(きょうち)に於(おい)て神(かみ)のささやきを聴(き)き得(う)ることは最(もっと)も有(あ)り難(がた)いことである。

げに神霊実在(しんれいじつざい)の認識(にんしき)は悳行生活(しんぎょうせいかつ)の根本問題(こんぽんもんだい)である。

昨年より皆様と共に読み進めております道祖・解脱金剛尊者の『真行』、その「神霊の認識」と題された箇所の前半部分になります。

この「神霊」という言葉ですが、前回この『真行』から引用した箇所には、「死と同時に霊魂は分離して別世界に入(い)る。但し其の分離後の過程や状況は時日を逐(お)い条件に従って異なるが、要するに之(これ)が向上して神霊界に達するには幾段階を要する様である」とあります。

思えば今回のような突然の災害において亡くなられた御霊というのは、自身の死が自覚できていないがため、「別世界に入る」ことがまことに困難な状態であるのです。

そもそも「見えない世界」「あの世」には、大きく分けて2つの段階があります。1つには死の直後、まだこの世とあの世の間をさまよっている段階。私どもはこれを「幽界(ゆうかい)」と呼んでいます。

この幽界にいらっしゃる御霊は、俗にいう幽霊などとして現実世界に様々なメッセージ、特にその苦しみや悲しみを強烈に訴えてこられる場合があります。だからこそ、亡くなった直後から私どもは祓い、ご供養を通して祈るのです。御霊に対し真理の御言葉を伝え、その死を受け入れることをお手伝いさせていただく。

そうすると御霊は悟り、次の段階――これを私どもは「霊界」と呼んでいます。この霊界(れいかい)に入った御霊は、今度はみずから霊格を向上し、次の世に向かう準備のため修行に入られると共に、この世に生きる私たちにも様々な恩恵を与えてくださる存在となるのです。

もちろんこの「幽界」「霊界」の中にも、実に様々な段階があります。例えば仏教では初七日から7日ごとに区切り、77日で一つの区切りを迎えるということをするのは、まさに段階に応じて御霊を霊界へと導いているのです。

しかし、今回のように突然の災害、事故などで亡くなられた御霊は、そもそも自身が亡くなったという自覚がないため、この死後の流れに入ることがなかなか難しいようです。これは理屈ではなく、御霊に対し真摯かつ森厳な祈りを捧げると痛切に感じます。

だからこそ、こういった大きな災害時には、大勢の人たちによる大きな祈り、祈りの力、エネルギーが必要となるのです。

かむながらのみちのみ教えの根幹である「縦・横のカルマ」、縦の流れは血の繋がったご先祖、そして横は私たち自身の前世から今生を経て来世へと至る魂の流れです。

縦のカルマを清めることは、未来の子孫、未来の世界に直結します。この国の未来を創るのは今の若い世代、そしてこれから生れてくるであろう人たちです。御霊への祈り、祓いと供養が、この人類の未来に繋がっていることを、会員諸士はどうかこの機会にしっかりと認識していただきたい。

特に2月の節分、立春から本格的に年が明け、来月には春のお彼岸に理趣三昧供養が執行されます。その意味、意義を再度、深く受け止めていただき、一つでも多くの座に臨んでいただきたいのです。

そして横のカルマである前世から来世へと至る魂の流れ。それを清めるのは祈りもそうですが、何より日々の自身の生き方です。人格完成です。

私たちは生きているのではなく、生かされている。では、なぜ生かされているのか。それは今生、やらなければならないこと、やるべきことがあるからです。命というのは、この世で与えられた時間のこと。では、その時間を何に使うのか。何のために生きるのか――その選択は、一人一人の中にあります。

幸いなことに、私たちにはみ教えがあります。真理を学び、そして祈りによって、その真理を生きる力を頂戴できます。

道祖のおっしゃる如く、「神霊の認識」とは興味本位や猟奇的態度、ましてや現世利益のためなどではなく、このいただいた命の使い道、在り様を正しく認識し、神仏の恩恵に対する感謝と報恩の道を生きるための基盤として、「見えない世界」に対する目覚め、「霊魂の覚醒」が必要なのです。

そしてそれは、このような大災害や危機的状況において、誰もが感じ、願うであろう、世の平安、人々の安らぎ、亡くなった方々が安らかにあの世へと向かわれますように――一人一人の魂の奥底から湧き上がる、こういった思いこそが、すなわち神仏からの尊いメッセージ、真の「霊感」そのものなのです。

真剣に祈りましょう。多くの方たちに真理をお伝えしましょう。私たちには、その責務があるのです。

歓びと信念、誇りと熱意をもって、これからの未来を創り出していきましょう。人類和合の世界は、必ずや訪れます。私たち一人一人が希望の源です。

被災地の1日も早い復興と安寧を心よりお祈り申し上げます。

-会長からのメッセージ

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