教主からのメッセージ

つつしみをもって生きる

九月になりました。秋はお彼岸の季節であり、例年ですとこの時期は家族でゆっくりお墓参りをして、彼岸・悟りにむかって尊い行(ぎょう)をいとなんで参りましょう――ということをお伝えしているのですが、残念ながらこの稿を書いている時点では、第五波がこれまでに無い強い感染力で猛威を振るい、お墓参りすら思うようにならないのが現状です。

ワクチン接種がようやく進み、東京オリンピックも無事開催され、人々の心がゆるみ始めた、まさにその時を狙ったかのように、これまでで最大規模とも言える感染拡大が起きました。

一体これは、私たち人類に、なかんずく私たち日本人に、何を気づけという神仏からのご意思なのでしょうか……

最近ある方がリーディングを通していただいた神様からのメッセージを読む機会があり、私自身はっとさせられる言葉がありました。

コロナは人間が慎むことの大切さを忘れたことに対する警告です。人間に対して、自然に対して、また自分自身に対して感謝や慎ましさが足りず、大事にせず、浪費したり無駄にしたり消耗したりし過ぎたことに対するブレーキがかかっています。自粛はそのお知らせです。
厳かな気持ちや、畏れ敬う気持ち、感謝と喜びの気持ち、大切にして活かしていく慎ましやかさ、そういうものを人々が忘れた結果です。そのことに気づいて、まず自分がそのことを考慮して、生活習慣を変えたり、自分を立て直していくことです。
(ヨハネ・ペヌエル リーディング№16822より)

「つつしみ」という言葉。それは日本人の美点として、「あの人は、実に慎ましやかな人だ」などと使われていましたが、最近はあまり耳にすることがなくなりました。

「慎ましさが足りない」と怒られることも滅多になく、かろうじて「つつしんでお受けします」などと、重い役職に就く人が自動的に口にされますが、実際にその責務を「慎んで」果たされる人がどれだけいるでしょうか……

「つつしむ」とは「慎(つつし)む」「謹(つつし)む」、あるいは「敬(つつし)む」とも書きます。特に「敬む」とは文字通り敬(うやま)う、畏敬の念を持つことであり、神仏に仕える人が、ある一定期間、清浄な場所にこもり、身と心を浄め、神仏の御前で祭事を行なうのにふさわしいあり方になる――それを「つつしむ」と言います。

また「つつしむ」は元々「つつむ」が語源であり、全体を包み込んで引きしめ、穢れにふれないようにすることです。

ある神道の教説では、「つつしむ」とは「土(つち)締(し)む」であると言われます。この世の命あるものすべては土から成り立っています。但し、ただの土では文字通り「土くれ」で、命あるものとはなりません。そこには「締める」、すなわち集め、引きしめ、そしてその力を決して手放さない「締む」という、明確な意志の力が必要だというのです。

つまり、命はこの世に生きる意志、使命、目的を持ってこそ、はじめて「命あるもの」と言えるのだというのが、この教えの意味するところです。そうでなければ、人はたとえ生きていても「土くれ」、すなわち無機物に等しい存在だというのです。

われらの生活に意義と価値とを与うるものはすなわち高遠の理想である。恒久の目的である。われらは神仏なる宇宙的英雄、宇宙的実在に満腔の信念と崇拝をささげて、神と目的を同じうし、理想を同じうし、同感を同じうしてその境地に入るもの、これすなわち神人合一の理である、神意同仁の秘訣である。

私たちは、これまで長期間にわたる自粛を強いられました。しかし、せっかく神仏よりいただいたこの「つつしみ」の期間において、私たち自身は一体何を得たのでしょう。ここであらためて反省する必要があると思います。

今回の東京オリンピックにおいて、少し気になることがありました。SNSの発達により、世の中へ向けての発信が容易になった分、選手やその関係者への誹謗中傷が、これまでの大会では考えられなかったほど多く見られました。

「そんなささいなことを気にするなんて」という意見もありますが、中には選手に精神的な苦痛を与える事例もあり、決してないがしろにして良い出来事ではありません。

まして私ども信仰者は、このような人々の悪しき想念や無責任な言葉が「大気」そのものを穢してしまい、それがひいては今回のコロナ発生の根本的な原因ともなっているという、見えない世界の真理を学んでおります。

また、そのようなことを殊更に言わずとも、私たち日本人が持つ本来の感性からすれば、無記名で行なう誹謗中傷などは「つつしみの無い」行為、いわゆる「はしたない」こととして、忌み嫌ってきたはずです。

そういった、ごく当たり前の感性すら持ち合わせることのない人々が増えてきた。そのような意味で、このコロナ禍は、まだまだ私たち人類、そして私たち日本人にお知らせをし続けるのではないかと、そのように思った次第です。

その一方で、オリンピックで活躍された選手の皆様の姿には、本当に感動をいただきました。中でも日本ばかりでなく世界中の選手たちが、こぞって大会そのものが開催できたことへの歓び、感謝の念を口にされていたことが、とても印象に残りました。

開催そのものが直前まで危惧され、また様々な意見、矛盾に満ちた中で、このオリンピックという場に立てることそのものへの感謝。大会を支えてくださっている関係者、ボランティアの方々への畏敬の念。そういった想いに満ちあふれた、すばらしいオリンピックだったと思います。

人類のこれまで犯してきた罪咎穢(つみとがけが)れ、と同時に人類がこれからにかける理想、未来への希望――この両者がはっきりと顕在化し、世界中の人々へ転換と再生を促す機会となる。これこそ人類のカルマ解消そのものではないでしょうか。

オリンピックも祭りです。神仏と意を共にし、神仏と人間との「間(ま)」を釣り合わせるための祭典の一つが、このオリンピックです。

そのような意味で、この東京オリンピックは、もちろん現実的には様々な課題がありましたが、人類がこれからの行く末を見つめ、様々な気づきをいただき、そして未来を切り拓くための大きな礎となったことは確かではないかと、私はそのように受け止めさせていただきました。

人は命あるものとして、この世で生きる使命を見出し、その目的にむかって全力で進むことを神仏より期待されています。

その使命を見出すために、祈りがあります。祈りとは、自己の想いや願いを神仏のもとに届けることもそうですが、何より神仏からの想い、願いを私たちが受け取る手立てでもあるのです。

自分の人生に使命、目的を見出した人は、ブレません。体の中に心棒が一本、すっと立ったようなもので、どんなに人生の荒波が来ようとブレません。動じないのです。

そのような人生の目的を持った人こそ、真の「中道」を歩めます。中道とは再三、申し上げておりますように妥協ではありません。右にも左にもかたよらない、真にすべてを活かす道です。道祖のおっしゃるところの「真に惟神の大道を体得した者は、一方面の担板漢ではあり得ない。縦横無碍な自由な行動を為し得るものであります」という、この自由自在の境地です。これこそが「かむながらのみち」なのです。

かむながらのみちとは、神と共に歩く道です。神のように、一切のとらわれから解放され、世界中の人々に寄り添って進む道です。

来月はいよいよ感謝祭です。このような状況下、本部にお集まりいただくことも制限があるかとは思いますが、だからこそ想いを一つに、祈りを一つに、そしてかむながらのみちという会がこの世に生み出された意味と理想をお互い様の胸に抱きつつ、尊い祭りを共にして参りましょう。

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