会長からのメッセージ

神霊の実在の認識

いよいよ年末となりました。会員諸士におかれましては、「11月をもって年末とせよ」という道祖のお言葉の如く、既に今年1年の振り返りを終え、新たなる年への目標、ビジョンを描く段階に入られていることと存じます。

もし未だ手がつけられていないとしたら、あらためて今年1年、私どものテーマに沿って生きてきたか、自身が何を選択し、何に目覚め、何を高めたのか。あなたは、何を実現したのか――成長に必要不可欠なものは、常に正しい自己認識です。何を望んでいるのか、ではなく、現実はどうなのか。何ができていて、何ができていないのか。自問自答し、それを明確にしていただきたい。それが未来を描く礎となるのです。

一方、世情を顧みますと、仏教でいう三毒(さんどく)「貪瞋痴(とんじんち)」、欲と怒りと愚かさのスパイラルに人類が陥っていることを痛感致します。

何のためのコロナ禍であったのか、私たちはそこで何に気づき、何に目覚めたのか。それを対岸の火事ではなく、おのれ自身の問題として見つめ、祈る。みずからの内にある三毒を浄化し、たとえ小さなことからでも、一つ一つ自分に出来ることから始めていく。そこから負ではなく陽のスパイラルを起こしていく真行者としての務めに、お互い様に目覚めて参りましょう。

そのような意味で、先月初旬に本山醍醐寺において新たに当会員25名が無事、得度受戒を拝領し、新発意(しんぼち)としての道を歩み始めたことに心からの慶びを覚えます。

得度とは、みずからのうちにある三業を三密へと昇華し、仏弟子としての新たな生を獲得した証として法名をいただき菩薩の道を歩まんと決定(けつじょう)すること。自己のみでなく他者への祈りをさせていただけることの喜び。「与えるは受けるより幸いなり」という言葉の通り、歓びと確信をもって、みずからの命をお使いいただく道に精進する第一歩です。

その得度式の最終日、上醍醐へと登拝すべく早朝、麓の結界門を潜った一同に、正面から朝日がぱっとシャワーのように差し込みました。まるで一同のこれからの歩みを神仏が祝福されているような、そのような奇蹟的な瞬間で、皆が感動と感謝の思いで心ふるえました。

神仏は常に私どもを見守ってくださっています。決して現実を悲観することなく、しかし慢心もせず、常に感謝と向上心をもって、お互いに手を取り合って、新たな年に向けて歩んで参りましょう。

若(も)しそれ信仰(しんこう)の対象(たいしょう)が、単(たん)に個人的欲望(こじんてきよくぼう)や利益(りえき)の目的達成(もくてきたっせい)にのみ役立(やくだ)ち、或(あるい)は然(しか)らずとするも其(そ)の帰(き)する所(ところ)が、天神地祇(てんじんちぎ)の大御心(おおみごころ)や法則(ほうそく)に副(そ)わざるものであったならば、それは邪魔(じゃま)、邪道(じゃどう)として排斥(はいせき)せねばならぬ。又(また)微賤(びせん)なる狐狸妖怪(こりようかい)の霊(れい)などは言(い)うにも足(た)らぬが、太陽系宇宙以外(たいようけいうちゅういがい)の主宰神(しゅさいじん)の干渉(かんしょう)とも思(おも)わるる魔障(ましょう)を恐(おそ)れて之(これ)を誤認(ごにん)するが如(ごと)きことなどは断(だん)じてあってはならないのである。

所謂(いわゆる)敬神崇祖(けいしんすうそ)とは漠然(ばくぜん)たる信仰生活(しんこうせいかつ)に於(おい)ては、神霊(しんれい)を認識(にんしき)するに至(いた)ることは困難(こんなん)で、従(したが)って信仰(しんこう)は不徹底(ふてってい)なるを免(まぬか)れないのである。苟(いやしく)も神人生活(しんじんせいかつ)に入(い)らんとしたならば、神霊(しんれい)の実在(じつざい)を認識(にんしき)することが絶対(ぜったい)に必要(ひつよう)である。

信仰(しんこう)の対象(たいしょう)は単(たん)に神(かみ)とか仏(ほとけ)とかいう抽象的(ちゅうしょうてき)な概念(がいねん)であってはならない。真実魂(しんじつたましい)を以(もっ)て触感(しょっかん)し得(う)る神霊(しんれい)に接(せっ)して始(はじ)めて之(これ)との交流合体(こうりゅうがったい)が出来(でき)るのである。

道祖の『真行』の「悳行実践」は、再三お伝えしておりますように、同書のエッセンスというべき大切なお言葉が記されています。ここでは特に神霊の実在の認識、「真実魂を以て触感し得る神霊」ということが説かれておりますが、これは『真行』そのもののテーマであり、この後、何度も道祖により説かれることになります。

私どもが「見えない世界」に対する上で、留意すべき点が2つあります。

まず1つ目は、神霊や御霊の世界の認識が重要であると共に、それに「おぼれてはならない」ということです。

世間には往々にして、自分は霊感者である、霊が見える、声が聞こえるなどと殊更に言い立てる方がいます。しかし、その多くは残念ながら、道祖のいわゆる「狐狸妖怪」の類(たぐい)であることは否めません。そのため、たとえば日本では古くから「審庭(さにわ)」と言って、祭礼などで御霊が下がれた際、それが真のものかどうか見究めるお役目の者が不可欠でした。ただ、そのような専門的な訓練を経ていなくとも、周りに不快な思いをさせたり、無体に人の不安をあおったり、自己過信・慢心が見られたりといったものは、必ずといっていいほど「邪魔・邪道」の類とみて間違いはありません。

そこで大切なのが、この稿でも繰り返し述べております、師からの伝授、正しき法脈ということになりますが、これについてはまた次号、述べたいと思います。

もう1つの留意点ですが、「私は霊感などない、だから見えない世界など信じない、ある訳がない」と、これも殊更に主張する方もいらっしゃいます。

見えない世界というのは、人が信じる信じないにかかわらず、常に私どもと表裏一体に「在る」ことは間違いないのですが、試みにこのようなことを自己に問うてみてください。あなたは、何かに感動したことはないでしょうか。大自然の偉大さに畏敬の念を抱いたり、人が懸命に励む姿に心を動かされたり、身近な人からの思いやりに感極まって涙を流したり……

その思いは、どこから来るのか。そこに人の思いやはからいを超えた世界――見えない世界、神仏や御霊の世界からのおはたらきかけがある。そう思って、まずは手を合わせてみる。そうすると、自分の中にきっと湧いてくるものがあるはずです。

私たちは中庸を重んじます。御霊の世界を殊更に言い立て、安易な自己肯定に走ることはもちろん、それをまた殊更に否定することもよろしくありません。

お釈迦様は「この世は有限か、無限か」などの抽象的な疑問に対して「無記(むき)」――答えないという態度を貫かれましたが、これは決して見えない世界を否定しているということではありません。むしろ死後の世界や輪廻転生については「在る」ことを前提にして、様々な教えを説かれています。

それは、道祖のおっしゃる「抽象的な概念」であることを避け、正しい認識によって見えない世界に対峙し、それを前提、基盤とし、かつそれに振り回されることなく、常に自己の研鑽と向上の道を進めとお説きになられていたのです。それと同じことを、道祖もここではおっしゃられているわけです。

では、その自己研鑽と向上の道について、次回は述べたいと思います。

最後になりましたが、皆様ご周知の通り、このかむながらのみちのご法脈の一つであります真言宗醍醐派総本山醍醐寺の仲田順和門跡猊下が、去る11月10日に御遷化されました。私自身にとって信仰の師であると共に、人生の恩師ともいうべき深い御縁を頂戴しておりました故、宏大なる御恩を返し切れなかった悔悟の念は募るばかりです。ここに慎んで御冥福をお祈り申し上げると共に、その御遺訓を受け継いだ者として微力ながら更なる精進を御霊前にお誓い申し上げる次第です。

合掌禮拝

-会長からのメッセージ

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