教主からのメッセージ

敬神崇祖

かむながらのみち例大祭、まことにおめでとうございます。

そして、今上陛下の御即位と、「令和」という新たな時代の始まりを心からお慶び申し上げますと共に、この慶事を当会の立教二十周年と重ねてお祝いできますことに、あらためて神仏に深く感謝致します。

道祖・解脱金剛尊者は常に、我が国の御皇室と国土の在り方にこそ、私たちの生き方の根幹があると説かれていました。

我が国土は我が祖先の霊場であり、我等をこの国に産みなせる母と申せる最尊の霊が、この霊場に、この国土に、代々連綿として宿り給い、飽く迄祖国を護れと教え給う如く、絶えず霊感に培われた崇高さは、熱烈極まれる愛国精神の迸りであります。この精神的基礎をなすものは、実に敬神崇祖であり、祖国を今日の隆盛に導ける所以であります。

敬神崇祖とは、「神を敬い祖先を尊ぶの絶対なること」と道祖ご自身が説かれておりますように、神仏、そしてご先祖を敬う心と、その心を形にする礼の実践のことですから、殊更私から言葉を付け加える必要はないと思われますが、私の師である故岸田英山先生に「敬神崇祖を中心とした家庭教育」という御文章がありますので、その一節をここに引いてみたいと思います。

特に家庭教育について一言しておきたいことは、家庭ぐるみで敬神崇祖の生活行を実践するということです。教育者の中には、このようなことに対し、それは子供に宗教を強いることであり、害悪であるというように反対する人が多いでしょうが、敬神崇祖を中心とした家庭生活は、宗教というよりも、人間としての生き方そのもの、精神生活の基本なのです。
精神とは即ち、文字通り〝精なる神〟ということであり、わが心は精なる神の分け御霊であるということなのです。したがって、敬神の念とは、生命の本源たる大宇宙大生命の本体を尊ぶことで、それがそのまま自身の生命を尊ぶことなのです。そして、この世に生命を受けつぎつつ今日の自分をあらしめた父祖を崇(あが)めることが崇祖です。(中略)
したがって一人、一人がしっかりと自己を持ち、自己の特性を発揮して生き生きと生きてゆけるよう、独立心を与える教育が大切です。敬神崇祖を宗(むね)とした家庭生活、そして家庭教育は、神の分霊たる自己の尊厳を自ずから自覚できるように導いてやることであり、それはまずしっかりと独立心を育ててやることからはじまります。
(岸田英山『誠 時世を担う人びとに』より)

この御文章が書かれたのは今から三十年以上前となりますが、今さらながら英山先生の、まるで時代の先を見越したような考え方に深く敬意を払わざるを得ません。そして、このような素晴らしき師から教えをいただくことのできた我が身のありがたさを痛感しております。

英山先生がおっしゃられているように、宗教とは何より一人一人が生き生きと、それぞれの特性を遺憾なく発揮して生きることのできる道であり、それこそが、かむながらのみちという生き方に他なりません。

私どもが祈りを中心とした生活を世の中へとお伝えしているのも、まさにこのみ教えが「宗教というよりも、人間としての生き方そのもの、精神生活の基本」だからです。

一人一人が、自分らしさを発揮してこそ、他と真に調和できるのです。これが「和」です。日本人がはるか昔から大切にしてきた徳目、命の道です。

この和を実現するためにこそ大切なのが敬神崇祖という生き方であり、具体的には「礼」です。

人間は何のために生きるか。礼のために生きています。人間は感情の動物といわれますが、感情とは物に対する直観の働きを意味します。故に人間の感情は礼に生きる、感謝報恩の動物であらねばなりませぬ。感情を活かすには、感謝せねば、報恩せねば、感情は活きませぬ。その感情の向うところは、崇神敬祖に於いて最高峰に達します。神の国とは礼の国であります、礼の実行の国であります。

先月、かむながらのみち聖地巡拝が行なわれ、私は伊勢の内宮、外宮を皆さまと共に参拝させていただきました。ここ数年、参拝される人が年を経るごとに増しており、特に若い人たちの姿が目立ちました。

この度の巡拝は醍醐、橿原、そして伊勢へと足を運ばせていただきましたが、ちょうど時期として、平成天皇皇后両陛下が橿原、伊勢神宮と御親拝をなされた直後でもあり、畏れ多いことながら陛下の歩まれた道を私どもが後から歩んでいくような巡拝となりました。

この平成から令和へと時代が大転換する、まさにこの時に、私ども「かむながらのみち」が立教二十周年を迎えることもまことに慶ばしいことと存じておりましたが、この巡拝の道行きにおいて、私は大いなる確信と、そして与えられたお役目の尊さ、責務の重大さを実感することができたのです。

私どもの歩む道の先には、何より神仏ご自身が歩まれ、道を切り開いてくださっているお姿があるのです。故に私たちは、歓びと確信をもって、この道を歩んでいけばよいのです。
そして、私どもの後ろには、多くの人たちがついてきてくださっています。特に未来を担う若い世代は、この人生で一体何を大切に生きていけばよいのか、そのことを求めています。その人たちに向かって、私たちは、神仏や陛下が私たちに道を指し示してくださっておられるように、この道を歩む姿をこそ見せていけばよいのです。

新たな元号、「令和」の令は「礼」です。敬神崇祖の実践です。

そして、一人一人が「霊」、「みたま」に目覚め、この世界の「和」を実現する。それがこの「令和」という時代です。

小学校五年生の時から、このみ教えに生きると決めて、ここまで約七十年。何かこの年になって、ようやく自身の行くべき道、ビジョンが明確になってきたように思います。

何のために今まで私がみ教えを学び、この尊き神社をお預かりし、仏閣を授かり、そして多くの会員の皆様と共にこの「かむながらのみち」という道を歩んでいるのか。それは、「敬神崇祖・感謝報恩」という、道祖がお遺しになられた精神を、新たな時代にふさわしい形で、多くの皆様にお届けするために他なりません。

この世で私自身に残された時間はもう決して多くはありませんが、命終える瞬間まで、精一杯この身をお使いいただき、神仏からいただいたお役目に命を燃やし続ける決意を、あらためてこの佳き日に胸に刻ませていただきました。

本当の信仰の道を生きて参りましょう。

この世にいただいた自分という命の存在価値を、それぞれに深く感じて参りましょう。神仏は常に、皆様と共にあります。

最後になりましたが、このみ教えの根幹に立ち返るという意味で、「かむながらのみち」発足の大きなきっかけとなった浅野信先生によるリーディングをお伝えして、私のご挨拶とさせていただきます。

 前世より前進するために今に立ち至っています。充分なる時間をかけてようやくここまで至りました。ここから先はあなたの魂としても前人未到の境地です。さらに人類としても、ここから先はまだ未知数と言えるものがあるのです。それにかけるために今回生まれ変わってきて、ここまでたどり直しながら備えてきました。なかなかこの先まで行く者は少ないものです。
 会を離れられ、自立の道を歩まれると良いでしょう。あなたがこれからやろうとしていることは、ほとんど他の人ではやれないし、もとよりやってきてはいないことなのです。それができるまれな人たちの一人です。他の誰かでもできることではなく、あなたにしかできないことをやるようにという熱き願いが神の側からやって来て届いています。
 しかもその気というのは神気、つまり神の気で在ります。背後に大きな力が動いています。ご神気です。あなたの一挙手一投足が重大な大きな影響力を振るうものなのです。
 どちらを選んでもこれは大きなことなのです。とりわけ会から離れて自分の道を歩み始めるという方は、とりわけこの世においてばかりでなく神の領域に衝撃があります。とどまるというのはそれほどインパクトはありません。現状維持だからです。けれども、そこから離れて何かをなしていくということは、霊界や神界に対してものすごい影響が在ります。当然この世にも影響は波及します。
 普通、どこかの教団を離れるという場合は、信仰を失ったり自分に自信を失ったり、あるいは堕落したり退歩したりという場合が多いものです。けれどもあなたの場合は上昇ということであり、離れ方が違います。まるっきり正反対なぐらい違います。そして、そういった離れ方はまれなのです。
 少しずつそのような者たちが生まれ変わってきています。宗教の側から宗教自体にメスを入れ、宗教離れということではなくて、宗教の刷新を図るべく、本来の宗教をもたらすということで、従来の宗教の既成の枠から離脱しようということです。
 真の精神的継承者はこのようなことを強いられることがあるという例です。形の上での継承者と、精神的な真の継承者とがいるのです。形と精神が一致すれば理想的です。けれどもこのような宗教の危機のある今の時代、宗教の真の使命を達成するべく、達成するためにこそ、そこを出ざるを得ないという人が出ているということです。
 そのためにあなたはこれまで何十年も費やして、その会の精神を自分の中に注入していきました。そしてこれからの時代にふさわしい形で、それを表現したり形を与えるために、様々な手法やノウハウを自分の手元に引き寄せました。セミナーも、古神道も、そしてこのリーディングもそれらです。そして、その組織形態というのは、もはやこれまでの時代の宗教の枠ではありません。あり得ないのです。
(ヨハネ・ペヌエル リーディングより)

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