会長からのメッセージ

原点回帰

立春を迎え、いよいよ本格的な年明けとなり、「癸卯(みずのとう)」の年が始まりました。

ご存じの通り、古来より日本人は1年を春夏秋冬の四季、さらにそれを24の気として捉え、季節のうつろいに対する感性を培ってきました。

2月は節分明けから「立春(りっしゅん)」、そして半ばからは「雨水(うすい)」――立春は文字通り春が立つ。雨水とは、降っていた雪が雨に変わり氷が解け出すという意味で、農耕の準備を始める目安とされてきました。

また、この2月には本山醍醐寺において仁王会(にんのえ)が開催されます。

仁王会の由来については昨年の感謝祭号で書かせていただきましたが、私にとっての仁王会というのは、忘れもしない平成8年1月末。夢の中で私は奥深い山中にいて、見上げるとお堂があり、そこに向かって左右に長い昇り階段がある。以前来たことがあるようだけれど、記憶が定かではない。すると上のお堂から二人の方が出てきて、手招きをして早く来なさいと呼んでいる。そのお二人とは、道祖解脱金剛尊者と岸田英山先生でした。
とにかく上に行こうと思い……その時、目が覚めました。目が覚めた後、夢で見たその場所が、上醍醐にある醍醐水が湧き出でる処、醍醐発祥の地であり、醍醐寺のいわば最も尊い聖地であることに気がつきました。

当時、私は成長教育のセミナー事業に没頭し休む間もなく全国を飛び回っていました。醍醐寺とのご縁も遠のいて、当時から遡ると18年間も上醍醐に参拝していませんでした。

そして夢から数日後、私は上醍醐に登拝し、宿坊(しゅくぼう)に数日泊めていただき、久しぶりに静寂な祈りの時を過ごしました。そこで翌週の2月15日から始まる仁王会前行にお誘いをいただき、21座の参座を決め下山しました。

そこから、あらためて私と醍醐とのご縁がつながり、平成11年かむながらのみち立教、平成15年4月に金剛山成就院開山、翌平成16年には会員の修験得度への道が本格的に開かれ、ちょうど今から10年前、平成25年3月10日、今の第二道場・成就院の新本堂落慶の運びとなったのです。

このような道行きを思います時、今年はまさに原点回帰の年であり、今年のテーマにもありますように自己覚醒、自己昇華、自己実現を為すためにこそ、再度自己の道行きを振り返り、基礎をしっかりと固め、来年以降の「新生かむながらのみち」にふさわしい己(おのれ)であろうという決意が沸々(ふつふつ)と漲(みなぎ)ってくるのです。

さて、昨年は全国布教イベントをきっかけに多くの方が、このみ教えにご縁を結ばれたこともあり、今年はこの『みさとし』を通して、み教えの基本をお伝えしていきたいと思います。これもまた「原点回帰」の一つです。

そのテキストとして是非、皆さまのお手元にご用意していただきたいのが、道祖解脱金剛尊者の『真行』という御本です。

この『真行』は、道祖がお亡くなりになる直前、「私が死んだら、これまでに書き残したものを読み返すように。中でも『真行』は小さい本だが、一切が書いてある。わかるまで何百遍でも繰り返し読むことだ」とご遺言され、また事実、私どもかむながらのみちにおいても教学の主軸となる著書でもありますので、皆様が入会して真っ先に受講していただく慈敬学院入門編において、すべての方にお配りしております。

ただ、その入門編では、あまりこの『真行』の中身について扱うことができませんので、良い機会としてこれから1年ほどかけて、この『真行』を通して道祖がお残しになられたみ教えの根本について皆さまにお伝えしたいと存じます。

また、これまで長年学ばれた方も、是非この機会にもう一度、手に取り、じっくりと読んでいただきたい。信仰の学びというのは、常に繰り返しが大切です。ましてや、この『真行』はキリスト教でいう聖書、バイブルに匹敵するといっても過言ではありません。

私自身、この『真行』という御本に出会ったのは中学3年生の頃。当時の解脱会青年部の育成錬成会においてでした。中学生の私にとっては、非常に難解な言葉が並んでいましたが、そこには何かとてつもない真理が書かれていることだけは感じることができました。それ以来、今に至るまで幾度となく、折にふれこの小さな冊子を読み返すことで、道祖の真の思いにふれる体験をしております。

まず、そもそもの『真行』というタイトルからして、道祖独特のお考えが偲ばれます。

「信仰」、信じて仰ぐではなく、なぜ「真行」、真実に行なう、真理に沿って行動するということなのか。そもそも「真に行なう」とは何なのか……

結論から申しますと、ここでいう「真に」とは、道徳的に正しいとか、世間的に評価されているとか、こうすれば儲かるとか、あるいは祈っていれば救われるとか、うちの教団の教えは正しくて他は間違っているとか、そういう卑小な観点では全くありません。

ここでいう「真に」とは、一言でいえば「天意」です。

すべての命を活かす天の意に沿っているか。
天意を拝受し、それを天命として各々の人生に受け止め、日々実践しているか。

実践ということも、ここでは重要です。道祖は再三再四、「行(ぎょう)なき信仰は水の泡である」「知るとは行なうことだ、行なってはじめて知る」「それを覚えてどうする」などという言葉で、会員に対して行なうことの大切さをお説きになられました。

人はよく「頭では分かっているのだけれど……」ということを言います。ですが、道祖はそれを真っ向から否定します。人は行なうことで、はじめて分かる。行なわなければ、何も分からない。行ないこそが真実である。「真行」であるのだと――

では、その行ないの基となっている「天意」とは何か。どのようにしたら天意を知ることができるのか。それは、いみじくも教主が昨年の本誌一月号に「真行」というタイトルで書かれた内容が手がかりとなります。

「真」という字はもともと「眞」と書きます。
一節によると、この「眞」とは行き倒れの死体を表わした字であると言います(白川静『字統』他)

もっとも古代の人は、死を忌み嫌うのではなく、むしろ死を介した見えない世界こそが「まこと」、真実であるという捉え方をしていました。

ですから、このように非業の死を遂げた方の「瞋(いか)り」を「慎(つつし)んで」「鎮(しず)め」させていただくことにより、かえって見えない世界からのメッセージ、恩恵をいただけるのだという思想が、この「眞」という字には込められています。

もちろん道祖が、この「眞」の字義を意識していたかどうかはわかりませんが、見えない世界、すなわち神仏、御霊の世界にこそ真実、まことがある。事実、この『真行』の内容は、最初から終わりまで徹底して、神界・霊界こそが現実世界の根源であることを説かれているのです。

さらに、この『真行』が世に出た時期も重要です。

それは昭和17年5月――前年末、12月8日に日本は大東亜戦争へと突入。戦勝ムードもあいまって世は戦時一色。国のために戦え、命を捨てろ、粉骨砕身の精神で国に奉公……と、「実践」「行動」という論調は、実はそれほど目新しいものではありませんでした。事実、道祖は月報誌等には必ず国への奉仕活動を奨励され、会員の奮起を促されていました。が、この『真行』という著書にだけは、その出版された時期にもかかわらず、「戦時」や「国体」について一切触れられていないのです。

では、『真行』には何が書かれていたのか。

それが先ほどから述べております通り、終始一貫、神界、霊界、そして生命の不滅をうたっているのです。

ここに道祖が『真行』というタイトルに込められた深い意味、意義を拝察することができます。すなわち、世の有為転変がどうであろうと、変らないもの、それが神仏の世界、見えない世界である。その見えない世界に対する覚醒が、自身の魂の覚醒、昇華を促し、さらにその見えない世界に基盤を置いた生き方が、すべての命を活かし、世のため、人のためになり、自己自身をも活かす生き方――自己実現へと至る。

故に、真行とは、神と共にある生き方、すなわち「かむながらのみち」そのものである――このような普遍的な真理(神理)が率直なお言葉で書かれているからこそ、この『真行』は現代に生きる私たちの心にも響く名著となっているのです。

それでは来月より、実際の御文章に沿って道祖のみ教えの根幹について皆さまと共に理解を深めて参りましょう。

合掌礼拝

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