教主からのメッセージ

善き友となる

二月も節分を過ぎ、立春を迎えますと、いよいよ本格的な春を迎えることとなります。

まだまだ寒さが厳しい時節ではありますが、大自然の運びは確実に新しき年の始まりを示しています。

先月初めに緊急事態宣言が出されて、はや一ヶ月。第三波のうねりは予想以上に厳しく、お互い様に「慎み」を旨とした生活を余儀なくされております。しかし、だからこそ、ここでさらにもう一段階、深いところへと自己を見つめ直し、この一年をどう過ごすかを、お互い様に真摯に見定めていきたいものです。

一日を無駄にすることは、一日の生命を馬鹿にすることである。時は金なりとは、西洋の金言でありますが、時は必ずしも金ではありませぬ。時は御恩の生命であります。一日この世に生かして頂く御恩を忘れて、時は金なりとは勝手過ぎます。なぜ一日を生かさぬか。一日生きて一日の甲斐あるは、その一日を真剣に生き、努力に生き、感謝報恩に生きるにあります。

会員の皆様は、既にそれぞれ今年の一年の目標・ビジョンを描かれているかと思います。再三申し上げておりますように、今年は世界中の人々にとって大きな意味ある一年ですから、それを「やり損なわない」ように、しっかりと心定めておくことが肝要です。

使命ということについて、浅野信先生の次のようなお言葉がございます。

人の使命以前に、神の使命が在られるんです。人間の願い以前に、神の願いが在られるんです。つい、「人間の使命」、「自分個人の使命」と捉えがちですけれど、先ず、「神の使命」が在るんです。

それで、人間の使命というのは、神さまの使命の一部をそれぞれ頂いて、代行するというのが、人間の使命なんです。

ーー浅野信『使命を生きる』より

今年一年の目標、ビジョンというと、つい私たちは自分個人のものだけを考えてしまいますが、そもそも神の使命・目標・ビジョンがあることに、特にこのような大切な年であるからこそ、まず思いを致したいものです。

今年一年、神仏は私たち人類に何を求めていらっしゃるのか。私たちをお使いになり、神仏はどのような世界を実現されようとなさっておられるのか。そこが根本です。

さらに、次のようなお言葉もございます。

使命というのを、個人としてだけで捉えないほうが良いんですよ。互いの関わりの中でやる事を、神さまは喜ばれるからです。

ーー浅野信・同書より

使命・目標というのは、自分一人だけで実現できる場合というのは、ほとんど稀(まれ)です。おそらく「無い」言っても過言ではないでしょう。すべて他の人や物、場所との関わり、つまりご縁の中で実現されていきます。

故に、自分個人の使命・目標・ビジョンを描くことも、もちろん大切ですけれど、その前に自分が属するグループ、会社、または家族としての使命・目標・ビジョンについて、しっかりと捉えているでしょうか、定まっていますでしょうか、ということです。

そしてその根底には、神仏そのものの願い・ビジョンがあられることは先に申し上げた通りです。

私たちかむながらのみちの今年の目標・テーマは、年頭に発表のあった通りです。

魂の目覚め、和の国の目覚め、人類の目覚め
~世界を導く、浄化から昇華、昇華から聖化へ~

そうであるならば、やはり皆さんご自身の今年の目標が、果たしてこの「目覚め」「覚醒」ということにかなっているか。ご自身の目標を達成することが、すなわち魂の目覚め、和の国の目覚め、人類の目覚めにつながっているか。世界を導くだけの思いと信念が込められているか。

どうかこの「慎み」の時期をいただいている今この時だからこそ、再確認、再三確認していただきたいのです。

もちろん、それぞれが身の丈以上の願いや目標を掲げて、鼻息を荒くしていただきたいというわけではありません。むしろ自身の生活を大切に、慎ましやかな願い・目標を誠実に実践することが、この会の使命であり神仏からの願いである「目覚め」につながっていることを深く思い描いて祈り、実践することが大切ですと申し上げたいのです。

それはお仕事においても、またご家庭においても同じです。そのように神仏の「意」を、それぞれの生活に乗せていくことが「意乗り――祈り」です。

そのような意味において、私が皆様に今年一年、是非とも心がけていだたきたいこととしてお伝えしたいことがございます。それは「善き友」となっていただきたいということです。

仏教の世界では「善知識(ぜんちしき)」という言葉がございます。この「知識」というのはいわゆる学問とか学びとかの意味ではなく、「友」という意味です。

仏教の開祖であるお釈迦様には、次のようなお言葉がございます。

私は善き友(善知識)となろう。善き仲間となり、善き人々に取り囲まれるようになろう。

ーー『サンユッタ・ニカーヤⅠ』

お釈迦様のように悟りを開かれた方でも、決して「師であろう」「先生になって、皆を導いてやろう」などという思いは持たれなかったのです。

むしろ、「万人の善き友」となり、共に歩み、共に悩み、共に苦しみ、そして共に歓び、その中でお互いに悟りを開いていくことを生涯の使命とされたのです。

私ども人間は愚かにも、また傲慢にも、他人のことをあれこれと批判し、感情的に切り捨てるか、生半可に悟ったような口をきいて相手をやりこめようとしてしまいますが、神仏の目から見れば、私も含め全ての人々がお互い様に修行の身です。悟りを目指している途中です。五十歩百歩なのです。

いま人類は苦しみのまっただ中にいます。「これを乗り越えれば」というところで、もう一段高い心の境地を目指して、苦しみを味わい尽くしているのが、今の私たちの姿です。

そのような時こそ、まず私たち信仰者が率先して、共に歩み、万人の善き友たらんとして、批判も非難もやめて、できる限りお互いをいたわり、慈しみ合い、あたたかな言葉、にこやかな笑顔をさせていただくよう心がけることを、どうか今この時だからこそ、忘れずに生きていきたいものです。

そのようなところから、魂の目覚め、和の国の目覚め、人類の目覚めは生まれるのです。

言葉というのは不思議なもので、思いを言葉に乗せる、口にする、書き留める、さらに多くの人と分かち合う、共に唱える、そういったことを繰り返し行なうことで、言葉自体が力を持ち始めます。文字通り、神様の力が込められると言ってもよいでしょう。

そのような見えない世界の力が込められた言葉を持っている人は、普段の生活からして、他の人とどこか違います。確信に満ち、幸せそうで、おだやかで、それでいていざという時に対処できる力を持っている――そのような人になっていきたいものです。

皆様は、今年一年、どのような目標・ビジョンを描いておられますか? どうかそこに神仏の心を乗せて、日々を歩んでいただきたいのです。

かむながらのみちとは、神と共に歩む道です。神のお言葉をいただき、心の底からあふれ出る力を世に分かち合っていく道です。

今が正念場です。世界中の人々と祈りを共にする時です。

一日一日の生活を大切に、決して無駄な時を過ごすことなく、お互い様にさらに精進して参りましょう。

-教主からのメッセージ

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