教主からのメッセージ

新しき生活の創造

四月となり、いよいよ本格的な春を迎える時節となりました。

水はぬるみ、鳥は歌い、花は咲き、風はその薫りを運ぶ――そのような自然の営みを感じるにつけ、人が右往左往している間にも、確実にその歩みを止めない大自然のたくましさ、力強さに驚かされることがあります。

あの十年前の大震災においても、あるいは今回の新型コロナウイルス感染症の蔓延においても、人が大自然の前においていかに無力か、卑小な存在であるか。それでも人は、様々な智恵と工夫、何より謙虚でお互いにいたわり合う心をもっていれば、そのような事態も乗り越えていけるのだということを学んだはずです。

それでも人は、ともすると春の訪れが、まるで自分たちの力で引き起こしたかのように錯覚し、当たり前のように受け止め、そして命の尊さを忘れ、おごり高ぶり、そしてまた同じ過ちを繰り返すということを、ついしてしまう愚かな存在であるということを、決して忘れてはならないと思うのです。

第三波もピークを過ぎ、世の中が活気を取り戻し、様々な場面でお互いの交流が増えてきているのは喜ばしいことです。だからといって、「もうコロナは終わった」「以前の生活を再び取り戻そう」という捉え方は、やはり繰り返さないほうがよいでしょう。

「コロナ」は終わりません。それも大自然の営みの一つですから、私たち人間には感知できないだけで決してその歩みを止めてはいません。事あるごとに、その猛威をよみがえらせる可能性があると常に念頭に置いておくことは、やはり人間の「智恵」として必要なところでしょう。

そして何より、このことを機に私たち人類が様々な面で目覚めなければ、あのヴィヴィアン・リーチの「新型コロナウイルスからの手紙」の末尾にあったように、「もっと強力になって帰ってくる」ことさえ、決して夢物語ではないのです。

だからこそ、私たちは「以前の生活を取り戻す」のではなく、「新しい生活を創造する」ことに、意識と力と行動を向けるべきなのです。そのことは今、世界中の人々が痛感しているはずですが、あえて皆さまと共に深く胸に刻み込んだ上で、この春の訪れを迎えたいと思うのです。

我まさしく生きるの道は、一切の因縁を切ると同時に生かすにあります。人間とは因縁を離れて人間はありませぬ。より美しく生きゆくことは、人間総体の願望でありましょう。その美しき生活は解脱して、美事新しき因縁を創造するにあります。かくて自ら生きることは生かすことであります。物を生かし、心を生かし、社会を生かし、国家を生かし、観るもの、聞くもの、触れるもの、総てを生かしゆく誠こそ、即ち自ら生きる道であります。そこに解脱の報恩感謝の生活があります。

いつも私が事あるごとに掲げさせていただいている道祖のお言葉ですが、いま新たな意味合いをもってそれぞれの心に呼び起こしていただきたいメッセージのように思います。

ここでいう「因縁」とは、私たちのいう「カルマ」のことですが、要は積み重ねのことです。人は習慣の産物です。生きるということは日々、身と口と心の行ないを積み重ねていくということです。その身(しん)口(く)意(い)の三業(さんごう)(カルマ・因縁)が積み重なり、習慣となり、それが未来の自分、あるいは子孫、来世の自分をも創り出しています。

ですから、美事新しき因縁を創造するとは、すなわち新しき習慣の創造であり、新しき生活の創造に他なりません。

おそらく、これからがむしろ人類にとって本当の試練です。様々な試みがなされると共に、様々な場面で悩み、迷い、感情のぶつかり合いや、争いなども起きるかもしれません。その時、私たち信仰者にとって、大切なのは「つながり」です。人と人とのつながり、人と物とのつながり、人と社会とのつながり――先の「物を生かし、心を生かし……」というお言葉のとおり、すべてを生かしゆく誠こそ、これからの苦難に立ち向かえる真の基盤になるはずなのです。

信仰とは、つなげること、続けることに意味があります。道祖はご生前、「解脱の尊さは一朝一夕(いっちょういっせき)にわかるものではない。忙しい中に暇(ひま)を作って疑(うた)ぐりながらでもよいから三年ついて来い。そうすれば少しはわかるであろう」とおっしゃっていました。

もちろん三年で「少し」ですから、正直なところを申し上げれば、信仰は一生です。一生かかって、ようやくものになるかならないかというくらい、真に自己のすべてを捧げきった中から、はじめて信仰の本質は見えてくるとも言えるでしょう。

カルマ、因縁とは習慣のことです。それも自己自身の習慣だけでなく先祖代々、あるいは先の世から何百年にもわたって積み重なってきた習慣が、一朝一夕に断ち切れるものでないことは、常識的に考えてもわかる話です。

ですがまた信仰の奥深さというのは、その因縁、カルマの深さ、重さを真に自覚し、その連鎖を断ち切ろう、一切を生かす神仏の意に沿った習慣、生活へと生れ変わろうと目覚めた瞬間、またたくまに人生が激変するという体験もいただけるのです。

だからこそ道祖は、「解脱は一瞬にしても出来るし、十年学んでも出来ないものは出来ない」ともおっしゃっているのです。

これは誤解をおそれず、あえてお伝えさせていただくことですが、たとえ会とのご縁を無くしたとしても、神仏とのご縁を無くしてはいけません。そうすると本当に「無縁」の生活に入ってしまいます。無縁とは、一切が自己とのつながりをなくしてしまう、真に滅びの生活に他なりません。

再三お伝えしておりますように、幸せとは、いただいたご縁を真に活かし切る生き方のことです。

まして神仏とのご縁を断ち切るということは、みずからの命そのものとの縁を絶ち切ることと同義です。それでは、いくら人としての努力を重ねても、様々な場面における悩み、迷い、争いに翻弄されてしまうことは事実です。

ましてや、これからが人類にとっての本当の試練の時です。様々な苦難、試練、悩み苦しみの波は押し寄せてくることでしょう。

その時、みずからの足下をしっかりと支えてくださる信仰という基盤がなければ、まるで根無し草のように大海の中をただよい、さまよい、そして真の生き甲斐を感じることのない人生へと歩まざるをえないこと、これは大自然の法則からいっても明らかなことなのです。

道祖はご生前、このようなことを言って、ある会員さんをお叱りになられたと伺ったことがあります。

その会員さんは、困ったことが起き、矢(や)も盾(たて)もたまらず道祖のところへご相談に伺ったそうです。すると道祖は、

「なんでそんなことで相談に来た。会長(道祖のご生前の尊称)だっていつまでもいるわけではない。会長がいなくなったら誰に相談するのだ。会長は、お前達が自分のことは自分で解決できるように、毎日、骨身を削って指導しているのだ。それがわからぬか」と、お叱りになられながらも、やはりこんこんとご注意を下され、その解決の方法までご指示くださったそうです。そして最後に、

「何事もあせってはいけない。あせっているのは人間だけだ。地球の回転が止まらぬうちは人生に行き詰まりはないんだよ」と、やさしい口調でおっしゃられたそうです。

道祖がおっしゃられていたように、信仰の究極は「自分で自分のことを解決できるように」です。ですが、私たちはお互い、まだそこに至らぬ身です。だからこそ、信仰の「つながり」というものがあるのです。

お互いの会員同士、お導きの親と子、それぞれの会場をお預かりされている会場主の方と会員、そのような「ご縁」があればこそ、この「かむながらのみち」という信仰は成り立っています。

その「つながり」を、この春の訪れと共に、どうか皆さまは今一度、大切にしていただきたいのです。人はやはり一人では生きられません。信仰の道も同じです。一人では迷い、苦しむことも、お互いに分かち合えば、それだけで荷の重さは半分にも、それ以下にもなります。

それが信仰の持つ人と人、神仏と人とのつながりの尊さです。

その基盤があって、初めて新しき因縁の創造、新しき生活の創造は生まれます。

どうか分かち合いを大切にされてください。分かち合うとは、分け合うことで、菩薩行そのものです。みずからの重い荷物を分かち合うことはもちろん、他の人の荷物もお引き受けさせていただこうと願い、受け入れることから、私たち在家の信仰行は始まります。

そして来月は例大祭を迎えます。全国の会員がまさに一つにつながる、大切な時です。

この神事を通して、これからの新しき世界を創造する思いと力と、そして歓びを分かち合っていきたいと心から願っております。

かむながらのみちとは、神仏との深いご縁と共にある道です。

神仏とのご縁をいただき、それを多くの方と分かち合う道です。

これから世界人類が大きな歩みを進めようとしています。その根本を支える、一人一人が礎(いしずえ)となれるよう、共に力を尽くしてまいりましょう。

この春の訪れの歓びを、真に分かち合ってまいりましょう。

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