教主からのメッセージ

自由と歓び

令和四年かむながらのみち例大祭、まことにおめでとうございます。

今この時、私は大いなる歓びをもって、この大祭を迎えております。

ご法縁のもと一つに結ばれた多くの方々と共に、神仏より賜ったこの尊き場所に集えることの歓び。そこで今日、祈りを一つにできる歓び。その祈りから、新たな命の力が生み出されていくことの歓び――おかげさまで私は、家族をはじめ多くの方々の支えのもと、日々穏やかに過ごしております。

本部で開催されます月々の会合におきましても、徐々にではありますが、会員の皆様とお会いできる機会も増え、それが生き甲斐となり歓びとなっています。

横浜の本部道場は、来年から新たな道場建設ということで、一つの幕を閉じることになっておりますが、ここには亡き前会長をはじめたくさんの方々との思い出、何より私の「人生」そのものが詰っています。

最初は三十六坪の地所に十八坪の二階建て、当時この地域では一番小さな家でした。義父母が関ヶ原から出て来て、この家を見た途端、「こんなに狭いの!?」とびっくりした顔で言われたことを、今でも鮮明に覚えています。

それでも一階に四畳半と六畳、あわせて十畳のお座敷と、一間半の神前・仏前ができた時は、「これでようやく教えを伝えるため、多くの人に集まってもらえる」と、本当に嬉しかったものです。

それから月日が流れ、道場も広がり、また向かいには第二道場も建つなど、私と共にこの本部道場も歩んできました。その場所が、今まさに一つの終わりを告げようとしているのです。

しかし、終わりは同時に新たな始まりでもあるのです。

これからの若い人たちが、新たな思い出を刻んでいくであろう環境を作るのは、他ならぬ私たち先達の者が必ず果たさねばならない責務です。

その思いをもって、私もこれからさらに精進努力し、一人でも多くの方に、このみ教えの尊さをお伝えしていこうと思っております。

私はこのところ、よく「歓び」ということについて思いを馳せます。

本当の歓びとは何か。命の奥底から感じる歓びとは、一体何だろうと。

私はこの信仰という世界で生きようと、小学校五年生の時、心に決め、それからただひたすら、目の前の方のお幸せのために奔走する毎日を過ごしてまいりました。

たとえ真夜中でも連絡があればすぐに駆けつけ、いわゆる修羅場とよばれるような状況も何度となく体験してきました。

目の前の方が直面している問題に、共に向き合い、共に考え、そして共に祈り、私自身もわからない答えを共に出そうと、懸命に努力してきました。

見えない世界からお知らせをいただくのも、ご縁ある神仏に祈るのも、行(ぎょう)により御霊をおさめるのも、そして会へ導くのも、すべてはただ目の前の一人の人が幸せになっていただきたい、笑顔になっていただきたい、明るく歓びに満ちた日々を過ごしていただきたい、その一心でした。

そして気づいたら、今のように、大きな教えの輪が広がっていたのです。

そのような意味で、会員の皆様お一人お一人は、私にとって宝物なのです。

試みに功利打算を離れて全身全霊を以て靡き来る唯一人の対手を獲得して見るがよい。唯一人を導き得ざるものは絶対に多数を導き得るものではない。

私がよく引かせていただく道祖の『真行』、その最後の一節ですが、今この時になって、あらためて私自身の人生そのものと重ね合わせてみますと、深い感慨をもって受け止めざるを得ません。

私にとって人生の歓びとは、すなわち目の前の方、お一人お一人の歓びそのものでした。

ですから今、私はこう思うのです。

人生の真の歓びとは、決して一人では得ることができない。目の前の人、家族、職場、地域、そしてこの国や世界に生きる人たち、さらにはこの世に生きる人たちばかりでなく、過去から未来にわたる多くの命との「交歓」があって、はじめて私という存在は歓びを感じるのではないだろうか。

また、そのように神様は私たちの命を作られたのではないか――

私は、また「自由」ということについても、よく思いをめぐらせます。

解脱とは、端的にいえば「自由」のことです。自由自在。解放。囚われから解き放たれること。道祖は、この自由こそ、信仰の目指す最高の境地であると説かれました。

真に惟神の大道を体得した者は、一方面の担板漢ではあり得ない。縦横無碍な自由な行動を為し得るものであります。

しかし世の中では、この「自由」ということが様々に履き違えられている場面をよく見受けます。

何々ができるから自由、何々ができないから不自由、何々が無いから自由ではないと、すべて物事の有る無しで決めつけ、しかもその自由だと思っていた物や事を手にいれた途端、「今度は、あれが無いから不自由」と、際限なく求め続けます。

これで一体、いつ「自由」になるのでしょうか。

これは、自由について根本的に間違って捉えていることの証(あかし)です。自由とは、決して「自分がしたいことを何でもできること」や「自分がほしいものを何でも手に入れること」ではありません。

「自分」を根底に置くから、すべて間違うのです。そうではなく、もっと大きな命の歓び、端的に言えば目の前の一人の人の喜び、幸せ、それはとりもなおさず自分自身の命の奥底から湧きあがる歓び――その歓びのためであるならば、「私は何でもできる」という実感、確信、そして使命感こそが、真の自由自在の境地なのです。

ですから、私の一生は、思えば「自由」そのものでした。

誤解を恐れず、あえて申し上げますと、神道を使い、仏教を使い、リーディングを使い、セミナーを使い、算命学を使い、その他、ありとあらゆるものを使い、ただひたすら目の前の方の幸せのみ念じて、行なってまいりました。

今から振り返りますと、それこそ自由でした。解脱でした。そして、その自由自在の境地に人々を誘(いざな)い、共に歓びの心を分かち合う道――それがすなわち「かむながらのみち」なのです。

ですから、かむながらのみちには、明確な教義教典といったものは定まっていません。また、定める必要もないのです。根本的な「祈り・受容・超作」といった柱があれば、あとはただひたすら目の前の方の幸せのために、全身全霊をかけて「祈り」と「教え」を使っていけばよいのです。

そのような意味で、この「自由と歓び」こそが、かむながらのみちであり、そして私の人生、私の命そのものではないかと思っております。

――最後に皆様にお知らせをさせていただきます。

次号より、この誌上における月々の「みさとし」については現会長に任せ、私は大祭時などの折々のご挨拶のみとさせていただきます。

もちろん私自身、これからも会を担う方たちが活き活きと、このみ教えを多くの方に伝えていけるよう、共に力を尽くしていきます。

かむながらのみちとは、神と共にある道です。

神仏と、見えない世界にいらっしゃる御霊と、皆様と、そして私とが、これからもずっと一緒に歩んでいく道です。

この信仰に出会えた歓びと確信を胸に、これからも精一杯、自由に生きてまいりましょう。

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