教主からのメッセージ

人類聖化への第一歩

世界は今、刻々と変わりつつあります。

具体的な状勢については、この稿を書いている時点と、それをお読みいただいている時の差を思えば、何も申し上げることはできません。

ただ、一つだけ確実に言えることは、私たちが「変わらない」から、いま世界が大きく動いているのだということ。私たち人類の中に依然としてある深い業、カルマ――力、暴力で世の中が自分の思い通りになるという、大いなる錯覚によって、またしても多くのかけがえのない命が失われているのだということ。

そのような意味で、一昨年の新型コロナウイルスによるパンデミック発生から、まるで一連の流れのように起きたこのロシアによるウクライナへの侵攻は、私たち人類が変わらないことに対して、「目をそむけるな。今こそ向き合え」と、神によりつきつけられた最終通告のように思えてなりません。

もちろん私も日々、人類が再び世界中をまきこむ最も愚かで誤った選択をしないよう祈り続けております。そして、その祈りと同じくらい深い意味合いにおいて、あらためて私自身の日々の生き方、考え方を振り返る――自己反省、自我没却に努めることをし続けております。また、そのような機会でもあるという、強い信念のようなものに突き動かされております。

解脱の教えとは「自己反省、自我没却」である。
反省の語は、最近思想教化上の標語となり、現在皆様方、既に十二分、御了知の事。反省の語は広汎なる表意、凡俗なる吾人、絶対、意解了釈すること出来ませぬ。如何にしてこれを了解せんか、之れ須らく「自己認識」第一要素であります。

戦争とは、一言でいえば正しさと正しさのぶつかり合いです。

誰も自分が正しいと思わずに、命をかける行動に邁進することなどできません。ましてや、多くの者たちを戦場に送り込む指導者たちに、自分は悪の権化で、悪事に手を染めているという自覚があるはずもありません。必ずや「私こそ正義である」と、心の底から信じている、あるいは「錯覚」しているはずです。だからこそ厄介なのです。根は深いのです。カルマそのものなのです。

道祖は「自己反省、自我没却」の根底を支えるのは「自己認識」だと喝破(かっぱ)されました。自己を正視すること。それはとても勇気の要ることです。ですが、その自己認識がない限り、人は発展できません。進化できません。そして今こそ、人類すべてに、この「自己認識」が強く求められているのです。

道祖は、泥棒に入られた家の人に対して、「泥棒に入られるような家にした、あなた自身の過ちを思え」と指導されたことがありました。もちろんそれは、泥棒を罰しないということではありません。泥棒に入られた側にも、泥棒に入った者と同じくらい深い「因縁」があることを自覚せよ、ということを言われたのです。これはとても厳しいお言葉です。ですが、信仰の上では、やはり真理なのです。

「盗み」という現象が起きた、そのことを通して、盗んだ側も、盗まれた側も、共に自己反省・自己認識をし直して、新たな自分へと生まれ変われということをおっしゃられているのです。

もちろん私どもにとって、このような厳しいお言葉を素直に受け止めることは、なかなか難しいことです。いつもお伝えしますように、矛盾や葛藤に耐えきれず、ある一方の「正しさ」に逃げてしまったほうが楽だからです。

ですが、その弱さは、おそらく人類全体の弱さなのではないでしょうか。だからこそ、お互いを思い合う気持ちが必要なのです。

私自身は政治に直接たずさわる者ではありませんので、今の事態に対する批判などをするべき立場にはありません。ですが、このような人生の真理から、あらためて今の状況を見つめ直すと、今の戦争状態を引き起こすまでに追い込んだ西側諸国――これは私ども日本も含めてです――は、どのような責任を取るのか。そのような論調があまりにも少ないことに、私は少し違和感を禁じ得ません。

もちろん、これも繰り返しになりますが、今の戦争状態を肯定するものでは全くありません。直接この選択をした者は、やはりその責任を取るべきです。ですが、そもそもこの事態が起きた根本的な理由は何なのか。今の指導者を突き動かした背景には何があるのか。それは一部の人たちだけなのか。そのことをしっかりと「正視」し、そのようなスタンスからお互いに歩み寄らない限り、今の事態は決して根本的な解決には至らないでしょう。そして人類はまた同じ過ちを繰り返すことでしょう。

道祖は、この戦争という事態に対して、怨親平等(おんしんびょうどう)供養の大切さを強く説かれました。敵味方の区別なく、戦争という人類が最も愚かで情けない選択をした、その犠牲になられた全ての御霊の慰めをするのが、この世に生かされている私たちの義務であると。そのようなお言葉で、私たちの目を開かせてくれました。

だからこそ、この事態の根本的な解決のためには、このようなみ教えを根幹とした「祈り」が不可欠なのです。

ここでいう祈りとは、祈れば何か神風のような奇跡的な現象と共に、事態があっという間に終息するとか、そういったものでは全くありません。祈りにより、まず一人一人の心を広げよと言っているのです。自分だけの視点ではなく、目の前の人、その向こう側にいる人、さらに過去、現在、そして未来にいる人たちに目を向けるためにも、古来私たち人類は祈りという行為を通して、広くて大きなつながり――ご縁に目覚める心を育んできました。

人は弱く、愚かで、ずるく、責任を取りたがらない生き物です。ですが、そのような業の深い私たち人類に、神仏は「祈り」という、最も尊くかけがえのないものを与えてくださいました。この祈りから、私たちは初めて今の状勢を正しく見つめ、認識し、お互いを思い合いつつ、次の段階へと向かうことができるのです。

先ほど私は、「私たちが変わらないから、世界が変わり始めた」とお伝えしましたが、確実に私たちの中で変わってきたものもあります。それは、他でもない新型コロナウイルスによる感染症という未曾有の危機の「おかげ」によって、私たちは「世界」というものを強く意識するようになったことです。

SNSなどを通じたコミュニケーション手段の発達が、それに拍車をかけ、まさに「世界は一つ」という言葉がリアルに感じられるような状況がもたらされました。そして、まるでその準備が整ったことを見透かしたように、大陸の片隅で起きている戦争が、他のどこでもない、私たち自身の身近で起きていると強く思わせる情報が、日ごとに数を増していくようになりました。

私たちと同じ、ごく一般的な日常を営む一人一人からもたらされる映像により、病院や工場、店舗、家庭が破壊され、それまでの生活が一変する姿が心をゆさぶります。それは他人事では決してないということ強く感じさせます。

このような情報を得て、あなたの祈りは変わりましたでしょうか? 意識は変わりましたでしょうか? 生き方は変わりましたでしょうか?
今、いちばん私たちが見つめなければならないのは、何より自己自身です。

自分の心の中にある、戦争を生み出す種、これを見つめていきましょう。そのことをお互いに思い合い、いたわり合いながら、共に進んでまいりましょう。

私たちは、あらためて、歴史の大きな転換点に立っています。百年後の未来にいる人たちに、「あの時の人たちが、間違った選択をしたから――」と言われないような、そういう生き方を一人一人が創り出していきましょう。

過去を見つめ、今を見つめれば、おのずと未来は見えてきます。その未来を創り出すのは、他ならぬ私たち一人一人なのです。

かむながらのみちとは、神と共に歩む道です。

神と共に、一人一人がそれぞれの場で、未来の世界を創り出す道です。

どうかお互い様に、「人類覚醒・人類昇華・人類聖化」を、単なるかけ声で終わらせず、文字通り自己自身の歩みで示していきましょう。

来月は例大祭です。今年の例大祭ほど、大きな、そして深い意味のある時はないように思います。ここに多くの方が、心を一つにして集えるよう、ご縁を広げてまいりましょう。

新しい時代は、もう始まっているのです。

-教主からのメッセージ

Copyright© かむながらのみち , 2024 All Rights Reserved.