教主からのメッセージ

凡事(ぼんじ)徹底(てってい)

令和三年かむながらのみち例大祭、まことにおめでとうございます。

このコロナ禍という状況における大祭は、昨年に続き二度目となりました。

皆さまの胸の内には、昨年とはまた異なる様々な想いが去来していることと存じます。

人はせめて世の変革の様な非常重大の時機に魂の覚醒を得ねば遂に其の機を永久に逸するに至るであろう。

先月も引用しましたが、この佳(よ)き日に道祖・解脱金剛尊者の『真行』から再度、この一文を掲げさせていだきたいと存じます。

この道祖の『真行』は、昭和17年(1942年)5月8日、今から79年前の春の大祭時に出版されました。その前年12月には大東亜戦争が始まり、ここにいう「世の変革の様な非常重大の時機」というのも、実際に世界規模の「災厄」に見舞われている時だからこその御言葉でした。

故に道祖は、同じ時期に次のような御言葉も残されています。

日本何の為に戦うか。私は答える、魂の復活であると。種々説明の方法もありますが、要は魂の復活であります。魂の進歩と飛躍とは必ず復活を目差して生活する。そこに文明の発足があり、世界光明の口火があります。手っ取り早く私はそれを世界解脱の道順と呼んでおきます。

「魂」という単語が、この時期の道祖の御言葉には数多く出て参ります。おそらく今と全く同じように、まさにこの戦争こそが魂の目覚めを促す千載一遇の機会であると確信されたのでしょう。

もちろん戦争自体は、決して繰り返してはならない人類の悲劇です。しかし、そのような道行きも道祖は「魂の試練」と見なすことで、それ以降の平和な世の中を創り出す礎(いしずえ)たらんと企図されたのであると、私はこの時期の道祖の御文章を見てひしひしと感じるものがあるのです。

さて、この『真行』が発刊された翌月のこと、道祖は長野県下諏訪町の各農家に鯉(こい)50万匹を寄付されました。続いて9月には諏訪湖に50万匹の鮒(ふな)の稚魚(ちぎょ)を放流してほしいと、長野県の水産試験場に多額の寄付をなされました。

それを伺ったある会員が、道祖に尋ねました。

「会長先生(道祖のご生前の尊称)が仔鮒(こぶな)を寄付されても、諏訪湖に放流してしまったのでは、みんな天竜川に流れてしまって、諏訪湖に残らないのではないでしょうか?」

すると、道祖は笑いながら、こうお答えになったそうです。

「天竜川に下ってもいいではないか。そうすれば川で鮒をとる人のためにもなり、より多くの人たちが恵まれることになる。諏訪湖から魚が動かなければ、恵まれるのは湖の沿岸の人たちに限られる」

そのお言葉に、質問した会員は自身の心の狭さに恥じ入ったとのことです。

道祖が見据えていたものは、私たち凡人には及びもつかない、広く大きなものであったという文脈で語られる一つの有名なエピソードですが、先の「魂の覚醒」という言葉をここに重ね合わせる時、魂の目覚め、覚醒とは、単なる空理空論ではなく、常に実際的、現実的な実践が伴ってこそなのだということもお分かりいただける話であると思います。

では、魂の覚醒を得るには、何かとてつもなく大きな事業を成し遂げねば実現できないのかというと、そういうことではありません。

むしろ、小さな日常の一つ一つの積み重ねに、魂の覚醒、復活というものがあるのです。

「凡事(ぼんじ)徹底(てってい)」という言葉があります。

どんなに小さくて当たり前のように思えること、お掃除でも、皿洗いでも、簡単な事務仕事でも、ほんのささいな言葉掛けでも、その当たり前のことを倦(う)まず弛(たゆ)まず丁寧に、心をこめてやり続け、達人の域になれるくらい徹底する。そうすれば、いつしか人生において大きな違いを創り出すという、非常に含蓄(がんちく)のある言葉です。

先月、私は「カルマとは積み重ねである」ということを皆さまにお伝えしました。しかもカルマは自分自身の積み重ね、習慣だけでなく、先祖代々、あるいは前世から千年以上にわたっての「積み重ね」なので、一朝一夕に解消できるわけがない、ということも申しました。

だからこそ「凡事徹底」なのです。

まして私どもは在家宗教として、日々の生活こそが修行であるというみ教えをいただいております。そこに「徹底」せずして、道は開けません。幸せになどなれません。魂の覚醒などあり得ないことです。

よく「運が悪い」「うまくいかない」「なぜ自分だけがこんな目に」と嘆いている方がいらっしゃいますが、そのように嘆いている時間があったら、あなたのその散らかったお部屋を掃除するところから始めてみてはいかがでしょうかと、そのように思うことがあります。

汚(よご)れは穢(けが)れです。心に積もった穢れは、そのまま現実的な汚れとなります。

そのような理をよく弁えていた日本人という民族は、日頃から清潔さを保ち、「きれい」「きたない」を人生の根本的な価値観として尊んできました。また世の多くの宗教家たちは、清掃を何よりの修行として重んじてきました。

マスク着用、手洗いの励行、3密回避ということが世間で盛んにうたわれていますが、それが何より魂の浄めにつながることを自覚して、私たち信仰者は徹底して行なっていきましょう。それが今の私たちにできる最大限の浄めです。

思えば先の道祖の稚魚放流も、他の人から見れば壮大な事業のように思えても、道祖からすれば「凡事」だったのではないでしょうか。

諏訪湖から多くの稚魚が川を下り、その沿岸の人たちの生活をうるおす様子が、ごく「当たり前」に見えたからこそ、またそれを実現できるご縁があるという自覚のもと、道祖はただそれをお役目として果たされただけだったのではないでしょうか。

そのことを分からない人たちが、「諏訪湖から魚がいなくなってしまう」と余計な心配をし、かえって道祖のお言葉で自身の狭さを恥じ入ることとなったのです。

成功する、成果をつかむ、人生の勝ち組、といったようなことが世間で取り沙汰されますが、その大きな仕事をされている当の本人は、実は自身のできる「凡事」を徹底して行なっているだけです。そのような人生の真の理を、この機会に大いに学んでいただきたいものです。

今、私どもの会員を始め多くの方が、苦しい状況の中、必死に生きておられます。

と同時に、多くの方が、いま自身に与えられたこの「凡事」こそ感謝であり、かけがえのないものであることに気づき始めておられます。

この凡事徹底の生き方が生み出すものこそ、感謝報恩という心、そして人心救済への決意です。

そして道祖のお遺しになられたみ教えの真髄も、この感謝報恩・人心救済なのです。

この例大祭という佳き日に、今の自身を再度、振り返り、その与えられた命を全うしているか、家庭に、職場に、地域に、社会に、そして国、世界に自身の精一杯の「凡事」を以て尽くし切っておられるか。再検討、再三検討されていただきたいのです。

ワクチンの開発・接種は進み、新型コロナウイルスによる感染症には一つの決着は付くことでしょう。しかし、「世の変革」は決して終えてはいけません。むしろ、これからなのです。

そのためにこそ、浄化から昇華、昇華から聖化という道行きを心の底から自覚し、「きれいな」生き方をして参りましょう。

一つ一つを丁寧に、心を込め、自身の言葉にも、態度にも、行動にも、責任と誇りを持ちつつ、朗らかに、いたわり合い、失敗も許し合い、分かち合い、手を取り合いながら進んで参りましょう。

かむながらのみちとは、神と共にある道です。

神がお与えになった、この「凡事」を徹底し、そこから魂の覚醒を自他共に得ていく道です。

大きな飛躍の時は、もうすぐそこです。たとえ直接会えなくても、声をかけ合い、気持ちを確かめ合い、目差すところをお互いに分かち合いつつ、歩んで参りましょう。

この春の佳き日に、心からの感謝の意を神仏に、そして会員の皆さまにお伝えいたします。

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