教主からのメッセージ

真の和

令和二年度の感謝祭を無事迎えることができましたこと、本当にありがたく神仏に心からの感謝の念をお捧げすると共に、会員の皆様とこの喜びを深くかみしめたいと存じます。

世の中の動きも、徐々にではありますが、活気が出始めているように思います。と同時に、「収束」とは決して言えない現状の中、様々な制約を自他に課しつつ、おそるおそる歩き始めている、というのもまた事実でありましょう。

それでよいのだと思います。むしろ、これまでが何も考えず進み過ぎたのです。一つ一つ、自身の歩みがどのような影響を自他共に与えるのか、立ち止まり、考えながら一歩ずつ進む。影響とは、すなわち「カルマ」のことです。

見えない、わからないながらも、私のこの「行ない」が、どのような結果につながるのか、必死に考え、予想し、祈りながら進んでいく。そして無事に終わったら感謝し、また次へと歩みを進めていく――これは、ある意味、信仰の歩みそのものではないでしょうか。

だからこそ、いま世の中に感謝、ありがとう、おかげさまという言葉が飛び交い、人々の意識が変ろうとしているのだと、私は思っているのです。

「おかげさま」――この言葉自体は、幼き頃から私自身、何度も繰り返し耳にし、また口にもしてきた言葉ではありますけれども、今このような時だからこそ、この「おかげさま」という言葉に込められた深い意味合いが心にしみこむように感じ取れます。

「かげ」という言葉は、一般にイメージされているような、暗くて見えないところという意味では本来、ありません。強烈な明るい光に対するしずかな光、暗く陰影をもった「光」というのが元々の意味です。例えば、太陽の光に対して月の光のことを「月かげ」などと言ったりします。

燈(ともしび)の陰(かげ)にかがよふ うつせみの妹(いも)が笑(ゑ)まひし 面(おも)影(かげ)に見(み)ゆ(万葉集 二六四二)
(燈の光に輝きつづける現実の妻の笑顔が、今面影に見えるよ)

また中臣御祓にも「天(あめ)の御(み)陰(かげ) 日(ひ)の御(み)陰(かげ)」とあります、この「陰(かげ)」です。

かげとは、決して目に見えないものではなく、目には見えているのだけれど、普段は強烈で明るい光に目をうばわれ、意識すらされていないもの。しかし、ふと立ち止まり、周りを見渡せば、この世は決して明るいところだけではない。暗くて目立たない、けれども静かで安らぎのある光が、この世の片隅をしっかりと包んでくれている。いえ、「片隅」などではない、この世の半分が明るい「光」だとしたら、もう半分はやさしくてしずかな光――「かげ」なのです。

そのことに普段、私たちはあまりにも気づいていません。だからこそ、私たち日本人は「おかげさま」という言葉で、もう一つの光に思いを馳せることを大切にしてきたのはないでしょうか。ここにも私たちのご先祖様が育んできた、やさしい感性が偲ばれます。

私はこのところ、「和」ということによく思い至ることがあります。真の和とは、いったいどのようなものであるのでしょう。それは、何も世の中すべてが明るさに満ち、光かがやいて暗いところなど何一つない、真っ白な世界なのでしょうか。

いえ、決してそのようなことではないと思います。光あれば陰があります。暗くて目が届かない、そんなところは嫌だ、切り捨ててしまえと断ち切ろうとしても、必ずやまた別のところに「かげ」はできます。

「夜の街」という言い方で、何か諸悪の根源のように一部の地域や業態を扱い、それを文字通り世の中から切り捨てようとしても、きっとまた同じ「夜の街」は現われるのです。それは、このような言い方が許されるならば、私たちの生活の「かげ」だからです。

もちろん、だからといって何もしない、ということではありません。その「おかげ」で生きている人たちがいること、またそこから恩恵をいただいている人たちもいることを、目をそらさずしっかりと見つめて、その人たちの生活や行く末を第一に考えながら、共に生きていこうという姿勢が大切なのではないでしょうか。

私たち日本人は、どうしても「村(むら)八(はち)分(ぶ)」的な発想が、まだまだ根強いように思います。嫌なもの、穢れたもの、目をそむけたいものには蓋をして、どこかに捨て去ってしまえば、きっとうまくいく……

決して、そのようなことはありません。むしろそのような発想こそがまた別の、しかももっと強烈な「穢れ」を生み出します。これも「カルマ」への対処と全く同じだということに、皆さんもお気づきのことと思います。

ちなみに、この「村八分」という風習も、もともとは穢れた人や物をある一定期間、辺境や聖なる空間といえる場所に隔離し、そこで「みそぎ」を行なった上で、再び村へと迎え入れるための習慣であったというお話を聞いたことがあります。

そのような意味で、今はコロナの感染拡大と同じくらい、コロナ感染者への差別、いじめが社会問題となっているということも、うなずける話かと思います。どうかそのようないやしい心根は、決して本来の日本人の感性ではないことに、皆様自身がしっかりと自覚していただきたく存じます。

浅野信先生が、よくおっしゃられている言葉があります。

現実は、願いが叶えられた形である。そのことに気づいて、どんなものでも大切にして生きていくといいのです。そうすれば成り立ち、幸せになり、人生を全うできます。   (『インターフェイス』2017年11月号より)

つまり、今私たちが生きているこの現実は、何一つ例外なく私たち自身が願い求めてきた結果なのです。すべて神様に願いが聞き届けられ、叶えられた結果なのです。

であるからこそ、この光も陰もある今のこの世の中こそが、真に感謝なのです。そのままで「和」の世界なのです。誤解を恐れずに申し上げますと、たとえコロナウイルスであろうと、私たち自身の願いが叶えられた結果であり、やはり「和」の世界を共に創り上げるための一員なのです。

そのようなところまで深く思いをこめ、「ウイズ・コロナ」という言葉を口にしていきたいと思います。神の身ならぬ私たちは、何が良いとか悪いとか、誰が正しい、間違っている、そのようなことを断言できるほど、賢くも偉くもないのです。

即身成仏は理屈ではない、学問ではない馬鹿になるのだ、馬鹿になれたら立派な人物である、生兵法は怪我の基であります。私は利巧が一番嫌いである、顔にも形にも己れは利巧だと現われて己惚れるものに、本当の利巧ものは一人も居ませぬ、国家の恥辱は利巧ものが始まる。

道祖が常におっしゃられていた「馬鹿」の意味を、この機会に再度、皆様と共に深くかみしめたいと存じます。

道祖のいう「馬鹿」とは、決して何も考えない人のことをいうのではなく、むしろ深く考え、深く感じ、深く祈った果てにある、一切を神仏に任せ切る境地のことを言います。すべては神仏のお恵みであり、今のこの現実こそが、神仏が私たちの願いに応えてくださった最良の結果なのだと確信と歓びに満ちた心で、一歩ずつ歩みを進めていくのが、道祖のおっしゃる「馬鹿」の生き方なのです。

総てのものは何時も申す如く、神の物であります。何一つ人間の物は人間に無く、一切神仏に拝借し申す時、如何なる物も、例え無くしても、失うても、無くしたとか、失うたと言うのは誤りで、お返し申したものであります。報いではないお返しである、思えば実に勿体ない。

この感謝祭という、秋の稔りの時節において、何より私たちは既に無限の稔りを神仏からいただいていることに、あらためて思いを馳せましょう。この今の現実こそが百パーセント、私たち人類にとってありがたい恵みであるという原点に立ち返りましょう。

光も陰もあってよいのです。むしろ陰こそが「おかげさま」です。それは自己のこれまでの生き方についても同様です。暗くて目をそむけたくなる過去こそが、おかげさまです。その時の必死になった自分があるからこそ、今のあなたがいます。

この世の陰も光も、等しく神仏の恩恵であると受け止めたところから、真の同心協力、真の一致和合の心は生まれます。

コロナという人類への大きな恩恵をいただいたおかげで、これから私たちが目指すべき真の和合の世界が見えてきたのではないでしょうか。

かむながらのみちとは、神と共に歩む道です。神からお預かりしたこの世を、少しでも良きものにしてお返ししたいと心から請い願い進む道です。

どんなことでも、させていただけることに、あらためて感謝の念を持ちましょう。感謝こそが、すべての命を躍動させる根源です。

そのような命の躍動で満ちあふれる世の中になったところで、コロナウイルスはお役目を終えて立ち去っていただけると、私は信じております。

どうかお互い様に、今できることを精一杯、させていただきましょう。


最後になりましたが、先月私は八十三才を迎えるにあたり、浅野信先生からリーディングを通して神様のお言葉を頂戴致しました。そのお言葉が、これからの私の生きる大いなる指針となったことはもちろん、これは今の世の中で生きるすべての方たちにお伝えしたい御言葉であると思いましたので、本誌に掲載をさせていただきます。

どうか皆様も様々な機会に、神仏から与えられたご意思に立ち返り、日々の生き方を見つめ直されていかれるよう、心から願っております。

◆ リーディング№16467より

質問:今月83才になりました。私のこれからの使命、生き方について神様からのメッセージを教えてください。

ソース:当たり前のように見えることこそ大事です。当たり前のように見られる日々のことに、一つ一つを大切にして、心から対応して、最後まで生かされて生きていきましょう。その他に何か特殊なことが必要だということではありません。

何でも基本が大事です。それ故、最後までブレることなく、迷うことなく、神のご意志を貫き、本道を歩み通しましょう。それで全うされ、真の意味で完了できます。

一つの人生を生きるとは、一つの大きな作品を作り上げることに見立てることができます。生まれ変わるといっても、今世が一度切りであることに変わりはありません。むしろ生まれ変わる分、今世がかけがえのない、他の人生に取って変えられない独自のものと思えてきます。

いつでもその時の人生に専心しましょう。さらには一つの人生の中の、その時その時に専心しましょう。その時するべきこと、またすると良いと思えることに迷うことなく専心しましょう。それが生き方の基本です。

その時自分がするべきことや、すると良いことは偶然ではありません。自分がカルマによって、するべきことや、すると良いことを決めてきています。さらに神がそこに関与されて計らい、その時自分がするべきことやすると良いことが定まってきています。

それ故、その時のことに安心し、落ち着いて、最善を尽くすこと。人間は神様を信じて、お任せし、ただその時のことに専心すればよいのです。神様は何もかもお見通しです。その時その人がするべきことや、すると良いことを熟知しておられ、現状を設定してこられています。

その時自分がするべきことに、周りを思いやりながら専心すれば、自分も周りもそれによって成り立ち、生かされ、現実が動いていくようになっています。それぞれの人がこのように、自分のするべきことに専心さえすれば、全体が網羅され、あとはお互いの関係性の中で協力したり、分担し合って取り組めば、ちゃんと現実は回っていきます。

人間は自分のその時のことに集中さえすれば、あとは神様が全体を計らい、成り立ち、問題が解決したり、必要なことは相応しい形で実現していったりするものです。

その時自分がするべきことや、すると良いと思えることに迷わず専心すること。そしてそれによって出てきた結果は、神がくださる最善の結果と捉えて受け止め、それを元にまた次のことに無心になって、集中して取り組む。これが超作という理想的な取り組み方です。

それによってカルマと役目が果たされ、さらにカルマを超えて神様と一つになり、神様に還っていくように歩み続けられます。これが、かむながらのみちとしての神と共に生きる人間本来の理想的な歩み方です。

こうして生き通すことが、かむながらのみちです。それを支援するのが、かむながらのみちという教団です。お一人お一人が、このように神様からあてがわれた自分の道を歩み通せるようにして差し上げるのが、かむながらのみちです。

あなたは、そのかむながらのみちを切り開いたものとして立派にお手本となるよう、みずからの与えられた人生を神様に導かれながら、神様と共に、またご縁のある人々と共に歩み通すのです。そうするとそこに新たな道ができます。

道が無かったところを、人が歩くことでそこに新たな道が形成される。それによって、そのことを願い求める人々がその道を歩いて、歩み通すことができるようになります。そのような生きざまが、かむながらのみちです。あなたはその先鞭をつけましょう。

あなたの生き方全般がお手本となり、生きた教えとなります。そうするとあなたにご縁のある方たちや、どのように生きて良いかよくわからない方たちが、あなたの生き方を参考にして歩んでいけるようになるのです。それが使命の生き方です。

おのずとその時にすると良いことが、人生では順々に巡ってくるものです。そのように神が図らわれることによります。自分のなかの魂も生まれてくる時点で生まれていく目的が組み込まれているため、おのずと自分としても勘が働き、その時その時すると良いことを思いついて行なうようになります。

神様も計らってくださって、現実を動かしてくださり、状況設定してこられます。特にこういう神様のお心と、神様のなされ方がわかった人は、神様のなさり方に協力的になり、みずからを神様に捧げます。そうすると神様がやりやすくなります。それによってなお一層、神様の関与が深く広く及ぶようになります。そのような人の人生や心は、神様を反映するものとなっていきます。

自分を神様に捧げれば捧げただけ、神様が現実の動きや自分の気持ちに関与してこられ、強く導かれるように変わっていきます。お委ねした分、関与して助けてくださるのです。神様とのつながりができ、お委ねした分、神様とのしっかりしたパイプができてきます。

誰に対しても神様は愛し、良くしてくださっておいでです。そのおかげでどこの誰でも、ともかくも生きておれます。それはちょうど、どんな親でも我が子のことはかわいいため、我が子には無条件に良くしてくださって、それで子供が育ち生きていけることに相当します。

その上でさらにこういうことがわかって、人間の方でも親に相当する神様に自分をお委ねし、神様がやりやすいように神様に従い素直であれば、神様がやりやすくなり、なお一層神様が関与し計らってくださるようになります。現実の状況や動きにも自分の気持ちにも、神様が関与し反映してきます。文字通り神と共に生きる人生を歩むようになるのです。

古代の人々は素朴だったため、このようなことがわかり、そのことを実践していました。こういうことが生きていく上で根本です。現代においては枝葉末節に走り、人々はこのような根本的なことを忘れ、遠のけてしまっています。そしてあまり重要でも本質でもないような枝葉末節を大事だと捉えたり、そういうことにこだわったり願い求めたり、それで一喜一憂するような、神様から逸れたようなあり方に成り下がっています。

根本と枝葉末節のことが本末転倒になっている世の中です。何が大事で何は末梢的なことなのか。多くの人たちが本末転倒に陥っています。そのため考え方も行動も価値観もズレています。それが本当の智慧が働かない理由であり、現実に混乱をもたらし、心に不安や悲しみや怒りや葛藤を招いているのです。

まず根本をしっかり自分の中心に据えること。そしてそれぞれのことを適正に位置づけること。根本さえ据えつければ、他のことは全部生きてきます。そしてそれぞれなりに適正に評価したり、それなりの価値を置いて、さほど囚われず関わっていけます。そうすると健全で、それぞれも生かされて、生きて機能するようになります。

このように本来の人間のあり方に戻すことが大事です。本来のあり方に立ち返ること。それを「かむながらのみち」と呼びます。多くの人が枝葉末節に走って迷い、肝心のものが手薄になっています。こういう複雑で便利な世の中だからこそ、なおのこと根本的なことを中心に据えることが大事です。あなたみずからそれを身につけ実践し、示していくのです。ただそれだけを通せばよいのです。

一つの人生は一つの大きな作品に譬えられるということです。未完成で終わらないよう、きっちり仕上げて天に還りましょう。神様を信じてお任せして、素直な心で一つ一つ落ち着いて、その時のことに集中してこなしさえすれば、神様と一致しているので、十分にするべきことをしてから、困らず、慌てず、すべてが終えられて還っていくことができるようになります。これが人生という大きな作品を仕上げる秘訣です。

また日ごろ暮らしているなかでも、自分としても「今回の人生であと何を自分はするといいのかな」と、そのようにみずからに問いかけて、心を巡らしましょう。そうすると、まだしていないことがあれば思い浮かびます。そしたらそれを行なったり、あるいは忘れぬうちに書き留めておいたり、身近な人に伝えたりしておきましょう。

今回の人生をきっちり仕上げようと、そのように心で決めて、コミットしてさえいれば、意識にセットしたことになります。そうするとその通りの人生として動いていきます。人間の心には、そのような働きや力が授かっていることによります。

特に神様とのやりとりの中で、神様のもとコミットさえすれば、それが必要で良いことならばその通りに現実が動いて成就するものです。それが祈りの力です。「こうなりますように」ということで、深く頭を下げて神様に委ねれば、そのようにセットされて、現実がそれが実現する方向で動いていきます。あとは安心して落ち着いて、順序よく一つ一つに対応していくばかりです。こうして全うされ完成します。(中略)

それが一つの大きな作品を完成させられたということなのです。これは考えてできることではありません。信仰のなせる業です。信仰があれば、すべてが可能になります。信仰があれば智慧も道具も人間関係も、全部正しく作用し生きてきます。

現代はこの肝心なものがおろそかになって、そうでもないことを中心に据え過ぎている世の中です。本当に価値のあるもの、中心に据えるものがわからない人たちが多いのです。それが愚かさ、仏教でいう無明です。本当の智慧が必要なのです。

神への信仰と帰依を中心に据えることで、全部が正しく位置づけられて生かされます。そういう人こそ本当に賢い人であり、自分の人生がより良く遂げられ全うします。おのずとそのように現実が動いていきます。自分でもその都度、智慧が働き、適切に応じていけるようになるものです。

まず神様を信じて任せきる。あとは安心して落ち着いて、一つ一つに感覚を働かせて応じていく。そうすると取りこぼしなく、不適切さもほとんどなく、それぞれに対して十分にするべきことがなされて終えられる。あとに残される方たちも困ることがない。支障をきたさない。

また福徳が大事です。人を思いやり、人を積極的に助けていく。それが徳積みです。現代は能力主義に陥っています。能力は成功や勝利を与えますが、幸せや恵みや安堵感を与えません。幸せや安堵感や恵みや健康は徳が与えます。徳とは人助けです。それをしている人は、困ることはありません。一時困るようなことがあっても乗り越えられ、その苦労がその後、糧となっていきます。

徳を積んでいる人は、自分の人生が恵まれ全うするばかりでなく、周りの人たちのことも困らず、子孫も仕事も支障なく、必要な限り続いていくようになります。能力や努力というより徳のなせる業です。

このようなこともあなた自身みずから了解し、会得実践されると共に、周りの方たちにも身をもって教え、示していきましょう。そのような徳が家系も「かむながらのみち」も保証し、守り導くようになることでしょう。

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