教主からのメッセージ

中庸に生きる

新型コロナウイルスの感染拡大がいったんおさまり、政府による緊急事態宣言は解除されましたが、この稿を執筆している時点では早くも第二波と懸念される感染拡大の傾向が見られております。

さらに、熊本を中心とした九州、中部地方など日本各地で発生した「七月豪雨」により、多くの方が犠牲となられました。亡くなられた方のご冥福を深くお祈りすると共に、いまだ被災状況に遭われている方々にお見舞いを申し上げます。

先月号の本稿でもお伝えさせていただきましたが、まさに今、世界中が不安と怒り、悲しみと迷いに満ちているように感じます。その想念は情報機器の発達により瞬時に世界中へと拡散し、実際に起きている出来事よりも、さらに輪をかけた感情の乱れが空気中にあふれているように思います。

道祖・解脱金剛尊者のお言葉に、次のようなものがございます。

病は気からの譬えがありますが、近代に於ける不都合なバチルスは専ら口から湧いています。口は禍いの門とは千古の金言で、それを退治するため戦争さえ起こります。而も一番往生の悪いのは何と言っても嫉妬と慢心で、実に世界の害毒であります。

ここでいう「バチルス」とは細菌の一種についての名称から転じて、「社会や人に害をなすもの」の譬えとして用いられていた言葉です。もちろん細菌とウイルスは異なりますが、以前会合でも拝読させていただいておりました浅野信先生によるリーディングの次のお言葉と併せますと、いつの時代にも真の宗教家は同じものを見据えていたことがよく分かります。

一般に広がりつつある情報のうち、3、4割は良いものですが、残りの大半は間違った情報だったり、興味本位であまり価値のない情報だったり、否定的だったりです。多くの人が情報の波に翻弄されています。そういう内面の実質のありようです。それがあるレベルに達した時、コロナウイルスの蔓(まん)延(えん)という象徴的現象で現実世界に表れたのです。(中略)
ノアの大洪水の時も似たような状況でした。「ノアの大洪水」は、水が溢(あふ)れたというよりも、実際は多くの人が他の人々と自身の否定的な想念の毒気によって息が詰まり、窒息していったことがその時起きていたのです。
(ヨハネ・ペヌエル・リーディング№16298より)

「否定的な想念の毒気によって息が詰まり」という表現が、まさに昨今の情勢についての真実を示唆していると思えます。

 どこからも「確信」に満ちた言葉が聞かれず、感情的でその場限りの言葉が蔓延し、不必要に人々の不安をあおったり、その一方では、事態を全く直視せず、あまりに自分たちだけに都合のよい考え方をしている向きも数多く見られます。

もちろんこのような状況下、何が「真実」であるか、見定めることは容易ではありません。ですが何が「事実」であるのかは、冷静に考えれば誰もが分かることです。

その上で、「真理」ではなく「神理」の目で見つめれば、おのずと自己がとるべき態度、振る舞いは見えてくるでしょう。

私たち信仰者は、あくまで「中庸」を貫くべきです。

中庸とは、決して極端な意見にかたよることなく、常に全体を見据えた行ない、考え方をすることであり、「妥協」とは違います。

世の中に矛盾があることを前提としつつ、そのどちらにも汲みせず、その時、その場で最善の答え出すよう努力し続ける姿勢のことです。

ですから中庸に生きるとは、決して楽な生き方ではないのです。むしろ、何かの、あるいは誰かの意見に盲目的に従い、判断停止することの方が楽です。しかしそれでは決して自他共に幸せになることはありません。

中庸とは、決して最後まで理想を諦めない生き方のことです。

もし、他人を責めたり、状況を否定しようとする心が生じたなら、むしろその弱い自己を神仏の前で懺悔していきましょう。「弱さ」は、決して悪いものではありません。むしろ自己の弱さを認めることのできない心根こそが、真の悪です。

そして事態を悲観せず、ましてや否定せず、常にこの状況を乗り越えた果てに、自分に、家族に、社会に、そして人類にどんな恩寵がもたらされるのかを念じながら、前向きに取り組んでまいりましょう。

もちろん、そのような意識を保ち続けることは至難の業です。だからこそ、このような理想を共に持つ信仰のご縁があるのです。仲間がいるのです。

先月もお伝えしましたように、積極的にこの間の自身の体験を周りに分かち合っていきましょう。そうすると、苦しみは半減し、楽しみは倍加します。人は決して一人では生きられません。それは、単に物質的に周りの助けが必要だということに限りません。

心がつながり合っていなければ、人は生きながらにして死ぬのです。たとえ命はあったとしても、その命の火は消えるのです。

その命の火を保とうとする生き方が中庸です。バランスです。人と人との和を重んじる生き方です。いただいたご縁を大切に、最後まで全うしようと全力を尽くす生き方のことです。

いまだ状況としては見えないものがありますが、信仰の目からは、これからの私たちの真の行く末はおのずと明らかです。これまで再三、お伝えしてきました通り、人類の覚醒、魂の目覚めが訪れるはずです。

そのような確信を胸に秘めつつ、どうか日々の一つ一つのことを丁寧に過ごされてください。すべてが生活行であり、信仰者としての使命です。

皆さまの行ない、言葉一つ一つが、世の中を真に浄化していく源です。

かむながらのみちとは、神と共にある道です。神と共に日常のすべてを行ない、果たさせていただく道です。

皆さまは既に大きな使命のまっただ中におられます。その歓びと誇りを感じながら、これからもお互いに精進して参りましょう。

そして秋には、一段と成長された皆さまと共に、お会いできる日を楽しみにしております。

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