会長からのメッセージ

御霊の道行き

4月7日、慈敬心院様のご逝去を受け、5月27日・横浜本部道場における七七日法要、そして6月26日・横浜ベイホテル東急における追悼セレモニーにおきましては、ご来賓の先生方をはじめ、全国より多くの方にご参集いただき、亡き慈敬心院様のご遺徳とご威光を偲ぶひと時を共にできましたこと、あらためて厚く御礼申し上げます。

この間、6月2日には北川家墓所において入骨の儀を執り行ない、さらに6月10日には、南葉山の地に分骨の儀をお勤め致しました。北川家の墓所は、いわば胎蔵界として、御霊が安らかにお休みになる場であり、南葉山の墓所は金剛界として、会員を導かれ、お働きくださる場であると受けとめております。

供養塔における法要が始まった途端、墓所の雰囲気が一変し、慈敬心院様が和光心院様と共に、霊界へと至る道筋を拓き、整えてくださっている力を感じ、尊さと有難さに胸が打ち震える思いでした。

また私自身、人生で初めて喪主として忌中(きちゅう)を過ごすということを体験しました。ちなみに忌中とは、亡き人の御霊に想いを寄せ、遺された者が身を慎み祈りを深める期間であり、一般には四十九日までを指します。神道では、死を穢(けが)れと見なしますので、その穢れが他にしないよう、神社や公(おおやけ)の場に出ることを極力慎みます。これに対し喪中(もちゅう)とは、故人を悼(いた)む心を日々の暮らしの中に保ち、祝いごとなどを慎む期間で、一般には一年ほどとされています。

では、この忌中である四十九日という期間に、遺された者はいったい何を為すべきなのか。私は真剣に己に問わざるを得ませんでした。

仏教の世界では、輪廻転生を含む人の命のサイクルを「生有(せいう)・本有(ほんう)・死有(しう)・中有(ちゅうう)」という四有(しう)によって説きます。そして、この四有のサイクルから抜け出すことを「解脱」と言います。

生有とは、この世に母の胎内で命としての存在をいただいた、その瞬間のことを言います。本有とは、肉体をもってこの世を生きる歩みそのもののこと。そして死有とは、霊魂が肉体を離れるその時であり、中有とは、あの世でさまざまな想念やカルマに向き合い、次の生へと向かうための大切な時。これが、いわゆる忌中とよばれる期間にあたります。

ですから、人が亡くなってからの四十九日間は、その意味において、きわめて大切な時であるわけです。

故に、この間は単に悲しみに沈むだけではなく、御霊と共に日々祈り、生前その方が望まれていたであろうこと、肉体を離れられた今は、みずからなし得ないことを成り代わってさせていただく。それこそが、真に喪に服すということではないかということに思い至りました。

そこで、慈敬心院様が生前、深く思いを寄せられていた、道祖解脱金剛尊者をはじめ、師である岸田英山先生の墓所へと馳せ参じ、併せてみ教えにゆかりある方々のもとへご挨拶に伺いました。

その道行きにおいて、私の胸には様々な想いが去来しました。もちろん根本的には「感謝」の一言に尽きますが、それでは覆い尽くされない、人としての感情、想いもよみがえってきたことは事実です。

それらを一つ一つ御霊と共に味わい、解消していく。この四十九日間は、御霊にとって、そして私たち遺された者たちにとっても、次の段階へと向かうための、いわば「完了」の時なのです。

そして、一般には七七日法要として営まれる「満中陰(まんちゅういん)」とは、中有の陰が満ち、今生において残された想念やカルマを整え、冥界・幽界より霊界へと進む節目であります。

もちろん、御霊の道行きはそれぞれに異なり、すべてが機械的に四十九日で定まるものではありません。しかし、だからこそ遺された者の祈りと行動が大切になります。生前の故人が抱いていた未完了の想いを、できるかぎり完了へと導き、御霊が執着を離れ、安らかに、そして力強く次の世界へ進まれるよう祈り、また時には御霊に成り代わって、その想いを遂げていくのです。

そして四十九日を終えると、御霊はいよいよ霊界における新たな段階へと進まれます。私はこの時期を、あえて「中陽(ちゅうよう)」と呼んでおります。中陰が、今生における想念やカルマを整え、ひとつの完了へと向かう期間であるならば、中陽とは、次なる新しい生へと向かって、御霊が陽の方向へと目覚め、さらに磨かれていくための覚醒と修行の期間であります。

この中陽の歩みも、やはり一様に定められているものではありません。長い時間をかけて進まれる御霊もあれば、比較的早く次の段階へと向かわれる御霊もあります。とりわけ戦争など大義のために身命を捧げられた御霊は、その志の純粋さゆえに、霊界における歩みもまた早いことを実感しております。

いずれにせよ、人が亡くなった後に残るものは、記憶ではなく、その人が生前に抱いていた想い、願い、執着、あるいは感謝――そういった想念に他なりません。肉体は滅びても、想いはなお働きを持ちます。だからこそ私たちは、生きている今この時から、どのような思いを日々発しているのかを、深く省(かえり)みなければなりません。

とりわけ、生きている人の強い念――恨み、妬(ねた)み、執着などの、いわゆる「生霊(いきりょう)」が、かけた相手に影響を及ぼすばかりか、古来から「人を呪わば穴二つ」と言われるように、自分自身にも返り矢として戻ってくるのです。この生霊が、すべての争いの源といっても過言ではありません。

また、生霊をかけられている人のところへは、通りすがりの、何の縁もゆかりも無い、あの世に行くこともできない御霊が引き寄せられてきます。類は友を呼ぶ。くぼんだ穴に、濁った水がどんどん溜まっていくようなものです。すると、日々必死に努力しているにも関わらず、なぜか成果が上がらない。運の巡りが悪い。そういう人生に陥ってしまうのです。

ゆえに大切なのは、日々の心の持ち方を正していくこと。人に怨みを抱かせるような言動を慎み、感謝される生き方を心がける。人を裁く念ではなく、感謝の念を発する。怒りや執着をため込まず、祓い清め、良き念を受け、良き念を返す人となる。その積み重ねが、私たち自身の運気を向上させ、また周囲をも明るく照らしていくのです。

神社仏閣のような祈りの場に身を置くことが大切な理由も、またここにあります。そういった聖なる場には、多くの人の感謝、報恩の想いが積み重なり、清らかな陽の気で満ちています。その気に触れることで、私たちの心も整えられ、重く濁(にご)った想念は祓われ、明るい方向へと導かれていくのです。

御霊の供養も大切ですが、それにもまして忘れてはならないのが、生きている間にこそ想念を清めること。これこそが、死後の御霊の道行きを考えるうえでも、また今をよりよく生きるうえでも、大切な心得であります。

おかげさまで、6月26日の追悼セレモニーには、全国から600名ほどの方が集われ、共に祈ることができました。それは慈敬心院様との最後のお別れの機会であったと同時に、御霊の新たなお働きを仰ぐ始まりの時でもありました。

その場に満ちた感謝報恩の念、感動、感激、その陽の気が参集された皆様の心に満ち満ちたことを、誰もが実感されたのではないかと思います。それこそが、御霊の道行きを明るく照らすと共に、私ども自身の運気を拓いていく根源の力となるのです。

かむながらのみちとは顕幽一如(けんゆういちにょ)、見える世界と見えない世界、双方を心から尊び、敬い、慈しみと金剛不壊(こんごうふえ)の心で世の平安を創り出していく道です。

慈敬心院様が霊界に入られ、見えない世界からの力が弥益(いやます)に高まっていることを、多くの場面で私自身、実感しております。

どうかお互い様に、これからの未来を創り出す仲間として、先生方が拓かれ、歩まれた道を、さらに歓びと確信をもって、共に歩んで参りたいと存じます。

合掌禮拝

-会長からのメッセージ

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