会長からのメッセージ

(しき)(くう)

令和7年度、かむながらのみち例大祭、洵におめでとうございます。

昨年11月に盛大なる落慶法要を厳修致しました、ここ新本部道場における初めての大祭です。全国会員の皆様と共に、心底から湧き上がる歓喜と勇躍の想いを分かち合えること、神仏に深く感謝申し上げます。

この5月は1年で最も「いのち」の気が満ちあふれる季節ではないでしょうか。新緑のあざやかな色、さわやかな風の薫り、田植えの時期を迎え、そこかしこに萌え出づる「いのち」の競演を胸いっぱいに吸い込むと、体中に力がみなぎる思いが致します。

この「いのち」ということを思うと、私は常に次の歌が念頭に浮かびます。

年ごとに 咲くや吉野(よしの)の桜花(さくらばな) 木を割りて見よ 花の在(あ)りかを

かつて、私が醍醐の伝法学院生であった頃、当時の院長先生から、まるで謎かけのように示されたお歌です。これが一休禅師の有名な歌であるとは、後に知ったことです。

当時の私は、学院で教わる何もかもが分からないことだらけで、「なぜ」「どうして」という疑問を常に口にしておりました。もちろん若輩者であるが故の言動であり、今から考えると赤面(せきめん)の至りではあるのですが、院長先生はそんな私に対して、真摯に向き合ってくださいました。

そして、ある時、先のお歌をお示しになり、「北川君、醍醐には桜の木がたくさんあるから、花を見てきなさい」と言われたのです。

ちなみに醍醐の桜というのは、すべて吉野の山から移植したもので、豊臣秀吉の「醍醐の花見」で世に知られているほど著名なものですが、その時の季節は春どころか、夏の真っ盛り。とにかく目に映るのはまばゆい緑ばかりで、花などどこにもない。当時の私は、まったく訳が分からないまま、庭をひとめぐりして帰ってくると、院長先生に「桜の花など、見当たりませんでした」と言いました。

すると、院長先生は、「それが答えだよ」とおっしゃられました。私はますます訳がわからず、何か煙(けむ)に巻かれたような思いをして、その場を立ち去った記憶があります。ですが、今なら院長先生のおっしゃられた、その意味がよく分かるように思うのです。

冬の間は、まるで枯れ木のようにやせ細ったままたたずんでいても、春になれば必ず満開の花を咲かせる桜の木。

では、その花はどこにあるのかと、木を立ち割ってみたとしても、どこにもない。けれども、その「いのち」は必ず春になると花となり、実となって立ち現われる、この摩訶(まか)不思議……。

私たちは目に見えるものだけを捉え、それだけを手掛かりに生きようとしているけれども、実際の「いのち」は目に見えない世界にこそ存在する。花となり、実となる大本の「いのち」は、決して目に見える存在ではなく、むしろ目に見えないところにこそ、確実に存在する。それを仏教では「空(くう)」というのです。

「空」とは、何もないとか、むなしい、空っぽという意味ではなく、何も見えないところに確実に存在する「いのち」の世界。「みたま」の世界。これがすなわち「法」、ダルマです。その「空」がもととなって、「色(しき)」――これは物質という意味です、この世の現実となって立ち現われるのです。

そして、また物質「色」は、最終的に「空」となり、見えない世界へと還っていく。そこからまた、新たな「色」がこの世に生まれ出る――この「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」の循環にある理(ことわり)、法則について説き明かされたのが「般若心経」であり、その大宇宙の真理、神理にそって生きようとするのが信仰であり「真行」なのです。

実際に、先の院長先生との、まるで禅問答のようなやり取りの後、私は学院生として四度加行(しどけぎょう)の期間に入りました。この行は、半年以上にわたり、1日中、ただひたすら祈り続ける、そこには理屈などありません。その行を通じて、ようやく私にもこの「空」の世界、いのちの世界が明らかになってきました。

すべては己の中にある。桜の木の中に、目には見えないけれど桜の花があるように、己の心の中にも華(はな)――「心華(しんげ)」があり、この心華を咲かせることによって、祈りが現実の動きとなって立ち現われる。自身の中の神性、仏性に目覚めることによって、この世にいながら神にも仏にもなれる。この世のすべては、実は目に見えない「いのち」によって支えられているのだと……

人は、どうしても目に見える世界、現界のみにとらわれ、いかに多くの物を所有するか、いかに不要な物を切り捨てるか、コスパ、タイパなどと、時間さえも「物」として扱いがちです。

しかし、色と空、見える世界と見えない世界、顕幽一如の世界観から眺めてみると、いかにそれが愚かな考えであるかは一目瞭然。そもそも、見える世界を生み出す根源があるのだから、そこに正しくアクセスする――これが「祈り」であり、「祭り」です。その祈りを基とした生活なくして、現実に成果など生み出せるはずはない。

たとえ一時的に生み出したとしても、それはまやかしであり、まぼろしなので、消え去るどころか、必ずや現実的にも害をもたらす。それが昨今の環境破壊であり、争いの世界、奪い合いの世界として見せられている。

にもかかわらず、人は、あいもかわらず目に見える物だけを手かがりに生きようとしている。そのような偏った世界観は、実は人類の歴史の中でごく最近になって生じた考え方、生き方であり、本来の人の生き方とは全く異なるものであると気づきもせず……

さらに、付言するならば、私どもの主祭神、天五色大天空大神について、私はこの例大祭の度に、その意味合いを皆様にお伝えしております。

宇宙そのものは暗黒の世界です。しかし、地球には大気があり、それを通すことによって、光は目に見える色となり、温かさとなり、森羅万象すべてを育む源となります。光を私たちの現実世界に顕現させるのは大気の存在であり、そして大気は水を生み、水が生命を育む。天五色大天空大神とは、いわばこの大気の神。見えない世界のお力を、見える世界の働きへと顕現させる神。すなわち、空を色へとあらわす神に他なりません。

私どもの会でお祀りしております天神地祇は、宇宙そのもの。すなわち「空」です。その空を現実の世界――色へと顕現させるのが天五色大天空大神。空即是色です。

では、かむながらのみちのご本尊である五智如来とは、どのような仏か。五智の智とは、文字通り「智慧」であり、しかも人間が現実世界で働かせるような浅知恵、悪知恵ではなく、見えない世界の理に通じるための智慧――色の世界を空へとつなげていくための智慧、すなわち色即是空なのです。

このように、天五色大天空大神、そして五智如来が、それぞれ空即是色、色即是空と、色と空の世界、目に見える世界と目に見えない世界を、正しき「法則」によってつなげていく。循環させていく。

私ども会員が日々、神前、仏前で祈らせていただくということは、この「いのち」の理、色と空の循環、この大宇宙、大自然の法則に、知らず知らずのうちに乗ることであり、その心が正しき物を生む行ないとなり、結果を創り、そして必ずや「しあわせ」になれる道へと運ばれていくのです。

どうか、この大いなる祈りの法と力を、この大祭を機に、あらためて各々の胸に呼び起こしていただきたい。このような、色と空の真理を、まさに理屈なく肌で感じ取り、日々の生活の中で生かしてきたのが、他ならぬ日本人なのです。日本人は、この真理を感性で受け止め、それぞれの生活の場で表わしてきた。その生き方を伝統として大切にしてきたのです。

今年の年頭において、私は全国会場主の方々に年に1度、本部での会合を呼びかけ、4月13日にその第1回目として東京・横浜・熊本の合同会合が開催されました。

当日は、この新道場に100人以上の方が集い、とても素晴らしい機会となりました。会合そのものは普段のものと変わりはありませんが、何よりそこに集ってこられた全国の皆様の気が1つになっていく。その様がまざまざと感じられ、感無量の思いが致しました。これは私だけでなく、参集された皆様が感じ取られたことだと確信しております。

このように、祈りとは最終的には理屈ではなく、肌で感じ取るもの。文字通り体感するもの。そして体感すると、必ずや新たな気づきや行動を生み出す。正しき法は、必ずや結果となって現われるのです。

これから、さらに全国の皆様がこの道場に集われると思いますが、是非本年だけではなく、来年以降も継続していきたい。しかも、同じ会場同士ではなく、新たな組み合わせをもとに、新たな出会いを創っていきたい。

人は、やはり実際に出会い、気を交えることによって、そこに共鳴が起き、新たな価値観、創造が生まれます。

そのエネルギーをいやますに高めるのが祈りです。大勢の人たちと共にする祈りです。

この例大祭を共にした全国の皆様から、さらに多くの方たちに、この新たなる神仏の気を分かち与えていただきたい。繰り返しますが、理屈ではないのです。人は、「いのち」に満ちあふれた世界、真の「空」の世界に身をひたすことが大切なのです。そのための道場であり、会場であり、何より皆様ご自身の家庭にある神前、仏前なのです。

かむながらのみちは、新たな世界を生み出す源です。すべての人がよりどころにできる、尊い聖地です。そのような意識をあらためて各々の胸に奮い起こし、この佳き大祭を共にお祝いしたく存じます。

本日は、洵におめでとうございます。

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