先月7日の「立秋」を過ぎると、暦の上では秋となり、本来であれば、暑さの中にも秋の気配を感じ取ることのできる時節のはずでしたが、今年はそこからさらに猛暑、酷暑が日本列島全域を覆い尽くしました。道祖・解脱金剛尊者が「五法則」の中で、
四期(しき)の運行(はこび)は、春夏秋冬(はるなつあきふゆ)如何(いか)なる文明物理化学(ぶんめいぶつりかがく)の力(ちから)にも及(およ)ばざる事(こと)の、大自然(だいしぜん)であります、万事(なにごと)も。
と言明されておりますが、人類はついにこの「大自然の法則」をも壊してしまうほどの域にまで達してしまったのか……
否、そうではなく、この酷暑も行き過ぎた「文明物理化学の力」に応じて、自然が本来の姿を取り戻そうとしている有様に他なりません。故に「異常」気象でも何でもなく、これ即ち「大自然の法則」そのものであり、私たち人類は、ここであらためて大自然に「生かされている」に過ぎない己自身を心底から見つめ直し、感謝報恩の生き方に立ち戻ることこそ肝要でありましょう。
さて、9月のお彼岸を迎えますと、本会では秋の理趣三昧供養が執行されます。この供養の意義・意味については再三、皆様にお伝えしておりますが、あらためてここに記します。
理趣三昧供養は、密教の根本経典である『般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)』のもと、秘密深遠なる霊界交流の法を用い、人類発生の源にまでさかのぼり、大祖元以来有縁無縁一切の御霊を浄化供養し尽くして余すところのない尊い供養です。
会員諸子がお申込みされた御霊については、密教最勝陀羅尼(みっきょうさいしょうだらに)とされる「一切心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼(いっさいしんひみつぜんしんしゃりほうきょういんだらに)」が梵字(ぼんじ)で記された霊符(れいふ)でおさめ、霊格を高め、御霊が子孫を正しく守護するはたらきをされるよう導かれます。
本会では、この間、金剛山成就院において得度者をはじめ多くの会員が参集し、計14座にわたる前行(ぜんぎょう)執行の後、彼岸中日の感謝日に本供養が厳修されます。また、身曾岐神社においては神仏和合のみ教えに則り中臣御祓による御霊の浄めと鎮魂行が執り行なわれます。この神仏両道による尊い法が私どもの理趣三昧供養であり、宗教界広しといえど、おそらく唯一無二のものであると自負しております。
会員の皆様におかれましては、自身が申込まれた御霊はもちろん、戦争や災害で亡くなられたすべての御霊に対して真摯に向き合い、顕幽一如の精神に基づくこの行を共にしていただくことを切に願います。
さらに付言すれば、この理趣三昧供養でお唱えいたします『般若理趣経』は、私たち人間が生きていく上で出会う欲望、執着、愛憎などの感情、すなわちカルマの根本を否定するのではなく、そのまま受け止め、むしろそのエネルギーを浄化・昇華し、悟り(三昧)へと向かう力に転換するという、非常に革新的な内容が説かれたお経です。
仏教、とりわけお釈迦様が説かれた根本仏教は、自由な精神が根底にありました。ですがお釈迦様の死後、いつしか戒律で人を縛る方向に傾いていった教えを立て直すべく、今から2000年ほど前、大乗仏教運動が起こされました。
この大乗仏教の根本精神は「慈悲の精神と在家の菩薩行」。在家の人たちを中心に、自利利他の心で生きる道が説かれていきました。そしてさらに、あらゆる法を取り込み、一人一人の命を肯定する方向へと転換していったのが密教です。その究極の教えとして説かれたのが、この「般若理趣経」という経典なのです。
そして宗祖弘法大師空海は、この理趣経に説かれている人間肯定の精神、愛欲とよばれ否定されてきたものこそ生命エネルギーの源であり、それを消し去るのではなく、むしろ昇華し活かすことこそが「即身成仏」――死んで仏になるのではなく、この世で仏になることだと喝破されたのです。
ちなみに、この理趣経について、同じ時代を生きたもう一人の天才最澄が、空海からその経典を借り受けようとしたところ、空海が断ったというのは有名な話です。それだけこの理趣経に書かれている内容は一見すると過激であり、ややもするとただの欲望肯定といった誤解を生む。だからこそ「法の伝授」――すなわち、生きた現場による相伝でなければ、決してこの理趣経を扱ってはならないとしたのです。これは、私どもみ教えを説く者にとって、決して忘れてはならない大切な事柄です。
法とは、常に師匠から弟子へ、人から人へと1000年以上にわたって継承されてきました。信仰の世界では、何を教わったのかということと共に、それを「誰から」教わったのか、ということが重要視されます。伝授という過程を経ないで得たものは単なる知識の集積であり、それは決して法として働かず、時と場合によっては「害」となることさえあるのです。
浅野信先生によるリーディングやご講話で、よく「カルマと使命はコインの裏表」というお言葉を頂戴します。これも先の理趣経に説かれている精神――人の欲望のエネルギーを否定するのではなく、悟りへと向かう力に換えるという教えに通じるものですが、これも単に頭や理屈で受け止めるのではなく、それぞれの人生の課題に向き合った時、初めて「そうか」と実感されるものです。だからこそ、私どもの会では個人指導、個人相談が欠かせないのです。
私自身、この個人指導を自身の使命として日々、真行に生きる者として最近、実感していることがあります。このところ他の信仰――仏教系であろうと、神道系であろうと、あるいはキリスト教の系列に属したところで学ばれている方でも、私どものみ教えに導かれ、会員として学ぶようになっていく方が非常に増えているという事実です。
私も他の教団との交流を大切にし、またそこに属する方からお話を伺う機会も多くありますが、正直「形」としては、私どもが行なっていることと他の団体には、それほど差はありません。では、何が違うのか……それが、先ほどから私が述べております法の伝授、すなわち生きた現場、それぞれの人が抱えている課題に応じた教えと行を伝えているという、その一点に尽きるように思います。
いま現実に悩み、苦しみを抱えているといっても、その在り方は人により千差万別です。ですから当然、その「因」となるカルマについても、通り一遍で片が尽く話ではありません。
その人の持つ背景――それが先祖、あるいは前世から来るものであろうと、それを一つ一つ解きほぐし、その人に合った祈り、学びをお伝えし、一歩ずつ共に進んでいく。もちろん、時間はかかります。行きつ戻りつで、時には歯がゆさも感じます。けれども、根本は一人一人なのです。また、一人一人、その「因」に達する深みがなければ、いま現実の問題が真に解決することは、やはりないのです。
もちろん、あらゆる信仰は、もともとそのような一人一人への「慈悲の精神と菩薩行」から発していたのでしょう。ですが、いつしかその根本の精神が忘れられ、法ではなく「形」だけ残ってしまう。これは私自身、常に肝に銘じており、また事あるごとに指導者として育成している者たちに繰り返し伝えていることでもあります。
さらに、私どもの会の大きな特色である「神仏和合」――これは、特別な「宗教」ということではなく、日本人が本来持っていた精神文化、生き方を重んじるスタンスのことです。神仏、先祖と共にある日々の生活、いわば「当たり前の生き方」を伝える。ゆえに、他の団体と対立することなく、むしろあらゆる信仰を、本来の生き方と共に「活かす」あり方こそ、この「かむながらのみち」であると言えるでしょう。だからこそ、このところ多くの他団体の方が、その信仰を続けながら、私どものみ教えを学ばれているのだと思います。
私どもの主祭神「天五色大天空大神」とは、大気の神、空気の神です。空気は普段、意識することなく、当たり前のようにありながら、この地球に空気がなければ、決して人は生きていけません。
それと同じように、私ども「かむながらのみち」も、いわば空気のように、当たり前のようにあって、けれどもそれなくしては人として生きられない。そのようなみ教えであると、あらためて私自身、深く実感した次第です。
ですから、会員の皆様には、「他の信仰をなさっているから、お導きできない」などと安直に捉えないでいただきたい。むしろ、他の信仰をなさっているからこそ、その根本を支える私どものみ教えが必要なのだと言えるのです。
どうか、いま地球規模で争い、気候変動、人心の荒廃が叫ばれている中、「人として当たり前に生きる道」、すなわちこのかむながらのみちこそが、世の中を救う根本道であることを再認識し、ここからさらに精進して参りましょう。
そして、来る10月の感謝祭で、お互い様に「感謝と報恩」の熱き心を胸に、横浜の本部道場でお会い致しましょう。