10月は感謝祭、立山火祭りと大切な行事を無事、執行させていただいた後、28日から翌月3日にかけてアメリカ・アリゾナ州のセドナにおいて、スタッフ・会員含む計12名で「ネイティブ・スピリチュアル・ツアー」を開催して参りました。
私にとって5回目となる、このセドナツアーの目的の一つは「原点回帰」――ご教主が最初の著書『内なる神を求めて』をはじめ、様々なところでふれられているように、私ども「かむながらのみち」が立教した当初は、ネイティブ・アメリカンとの交流が非常に盛んでした。
思えば私たち日本人とネイティブ・アメリカンとは、かつて陸続きであった環太平洋地域に住む民族としてルーツを同じくしており、自然を神と敬う感性、先祖を尊ぶ心など、多くの点で共通するものがあります。
昨年、立教25周年を迎え、新道場が竣工となったこの時期、あらためてこのネイティブ・アメリカンのスピリット――これからの世界に求められる「いのち」への感性を呼び覚まし、「人類覚醒・人類昇華」の祈りの原点に再度、立ち返ろうと決意し、今回のツアー開催に至りました。
11月28日夕刻、羽田を出発し、ロスでの乗り換えを含む計15時間のフライトを経てフェニックス空港に到着、そこでアメリカ在住会員・仁科誠一郎さんと合流し、車でセドナへと向かいました。
今回の旅で私自身、決めていたことが、毎日朝日に向かって祈ること。初日は6時にホテルを出発し「ヤバパイ・ビスタ」――ベルロック・カセドラルロックといったネイティブの聖地を見渡すことのできる地で、皆でお勤めをしながら朝日を拝むことにしました。
ネイティブの人たちが実際に祈りを捧げる場所。そこには神殿などなく、ただ東西南北、そして中央を示す石が配置されているだけです。それは神の降りる依り代であり、その東の場所に「天五色大天空大神・五智如来」の御札を設え、皆でお勤めを始めました。
祝詞、そして心経が終わり、最後の「南無解脱金剛」をあげ終わった、まさにその瞬間でした。私どもが祈っていた、その正面からまっすぐに、まるで御札の背後から後光が差すかのように朝日が昇ったのです。それは感動とも衝撃ともいえる瞬間でした。
神仏は必ず現象をもってそのご意思を表します。参加者一同が息を飲み、ただただ大自然の運びの尊さ、ネイティブの神と天空神との融合、内なる神と外なる神――自分と大自然のスピリチュアルとがまさに一つとなったことを実感したと共に、今回の旅がかけがえのないものになることを確信させてくれた瞬間でもありました。
その後、ベルロックのトレイルを散策し、スウェットロッジを体験した後、エアポートメサにて夕日を観察。初日を終え、2日目はセドンヤ・センターにてネイティブ・アメリカンの儀式やヒーリング体験をしました。
ここで再会したハバスパイ族のウクアラ氏は、3年ほど前までネイティブ・アメリカンの長老会会長を務められ、民族の伝統継承者・語り部として今でも世界中を飛び回りネイティブの儀式・教えを伝道されています。
25年ほど前、私は彼を日本へお招きしてワークショップを開催したことがあります。その時、私の中に深く刻みつけられた彼の言葉――ネイティブの教えとして「この大地は未来の子孫からお借りしたもの」というものがあります。
今のアメリカを筆頭とする西洋キリスト諸国の発想は、この大地は神から人間が管理者として託されたものであり、その実りは当然、対価として享受すべきもの、奪い尽くすべきものである。しかし、ネイティブの教えはその真逆で、この大地は未来の子孫から借りているのだから、より良きものとしてお返しをしなければならない。
その根底にある大自然への絶対的な感謝。すべての「いのち」を神として祀る、私たち日本人の「八百万神(やおよろずのかみ)」に通底する感性。
その相似性。世界にはキリスト教、イスラム教をはじめ、「宗教」とよばれるものは無数にありますが、このネイティブの教えほど、私たち日本人の心性・感性に通じるものはないように思います。
今回、私たちが最初に体験したネイティブの儀式。結界した神域にトウモロコシの粉をまき、この大地の恵み、そして先祖へと感謝の祈りを捧げる。決して豊かとはいえない、けれども素朴でまっすぐな「献饌の儀」。そこには古神道にも修験道にも通じる、何千年にもわたって先祖から継承してきた祈り、伝統があります。
私たちの命は神から与えられたものであり、果たすべきカルマ、そして使命がある。そのために使う有限な「時間」が、この命である。特にネイティブは、白人によって、それまで生活を営んでいた大地を奪われたことから、とりわけ血の継承に対する強い思いがあります。
――このようなお話を終日、私はウクアラ氏と共に過ごさせていただいたおかげで、心から語り合うことができました。
中でも今回、印象的だったのが、神を祈る時に頭を下げる意味について。ウクアラ氏いわく、人は頭で考えたことをすべてだと思いこんでいる。しかし本来、人の中心は精神、スピリット、すなわち心(ハート)にある。だから、頭を心臓(ハート)よりも低く下げることによって、思考を神の前で解き放ち、直感、心で感じていることを主にすることが、すなわち頭を下げる意味だと。
そしてさらに、ネイティブの儀式を執り行なっていただいたメディスンマンのソニアさんという方から、人生の時間について大切なことを教えていただきました。
過去、現在、未来という時間軸の中で、人は普段、どこに重きを置いているか。不安というのは、未来を思う心から生じる。一方、苦しみや悲しみは、過去の中にある。普段、私たちはあまりにも過去と未来に縛られすぎている。その結果、不安、痛み、苦しみで自分の心を傷つけ、病(や)ませている。
人生で一番大事な時間、それは現在(いま)しかない。現在(いま)という時間を大切にする。今日一日、朝起きて寝るまで、すべてが「今」の連続。その瞬間、瞬間にすべてをかける。故坂田安儀先生は、常に「今中(いまなか)」という言葉で、日本人の時間に対する捉え方についてご教示くださいましたが、そのことがあらためて思い起こされました。
私自身、「目的・ビジョン・目標」という観点で、人生の軸足を未来に置く傾向があります。それは自身の人生に責任を持つという意味でも、実に大切な思考であることは確かですが、そこにあまりに意識を向けすぎると、現在(いま)という時間が薄くなってしまう。
未来のことばかり考えて不安になる。怖れや心配で前に進めなくなる。一方、過去のことを悔やみ、恨み、とらわれる。周りがすべて敵に見え、自分も否定する。その両方を手放し、解放し、心(ハート)がまさに今、感じていることを主にしていくと、実はすべては感謝でしかないのです。
今を生きるとは、すべてを受け容れるところから。受容です。受容のないところに感謝は生まれません。感謝の心があれば、人は幸せになれる。かむながらのみちとは、人が幸せになれる道であり、そこには難しい教義・教理は何もないのです。
道祖が常におっしゃっていた「自己反省・自我没却」。この自己反省とは、決して自己否定ではなく、正しく今の自分を見つめること。感じること。そのために自己の持つカルマ・使命を知り、それに沿っていなければ改善し、前に進むこと。今の自分自身を真摯に受け止め、誠実に行動すること。
そして自我没却とは、文字通りカルマの解消、浄化です。カルマとは即ち「自我」から生まれます。その自我を浄化、解消するには、祈りしかない。いくら解消、解消といっても、それだけでは単に頭の中の「遊び」に過ぎません。実際に部屋を清めるには、雑巾や掃除機といった道具が必要なように、自我を清めるには、それに見合った祈り、行(ぎょう)があるのみです。
換言すれば、何も難しく頭で考えなくてよい。私どものご先祖が、何千年にもわたって培ってきた浄化の行、その法を正しく継承してきた師にならい、日々神仏の御前で実践していけばよいだけです。そこには難しい理屈、理論など何一つない。そうすれば、自然とカルマが解消し、感謝の念がおのずと湧き起こる。
「自己反省・自我没却」とは、そう「しなければならない」ではなく、そう「したほうがよい」。そうすれば、あなたの人生が幸せになれるのだから、是非やってみなさいという投げかけ、温かな思いやりに満ちた道祖のお言葉であると、私自身あらためて気づいたのです。
今回のセドナツアーは、この他にも実に限りない気づきと発見に満ちていましたが、もう一つ、これは帰国してから実感したことがありました。
今年は昭和100年、戦後80年という節目の年に当たります。昭和20年8月15日、昭和天皇の「終戦の詔勅」が発せられましたが、その直接の原因となったのが広島・長崎に落とされた原爆。その原爆の原材料となったウラン。このウランの採掘場所が、セドナから車で数時間ほどの距離にあるネイティブ・アメリカン、ホピの聖地であるテーブルマウンテンだったというのは有名な事実です。
はるか古代には、私たち日本人と源流を一つにした民族であるネイティブ・アメリカン。西洋諸国の「進出」により、大地を奪われ、あまつさえその大地から世界を滅ぼす源を採掘する労働を課せられ、他ならぬ日本人を大量殺戮する片棒をかつがされることになった。
そして今、私たちは第三次世界大戦――核の脅威による世界の破滅がいつ起きるかもしれない状況の中、この日本とアメリカという地において、同時に「世界の平和」を祈ることのはかりしれない意味・意義について、私の中にかつてないほど「和合」「一つになる」という想い、願いが強く、強く湧き上がってきたのです。そして、あらためて確信したのです。かむながらのみちとは、今の世界が必要とする教え、世界が求めている教え。世界中の人々が共鳴する教えなのだということ。
来年、令和8年は、このかむながらのみちの「再構築」の年として、様々な面に手を入れ、さらなる飛躍、躍進、そして昇華の年としていく所存です。
特に力を入れていきたいのが、み教えの中心となる人たちの成長です。私自身、指導者として多くの人たちの人生に関わらせていただいておりますが、さらに多くの人たちが指導という現場に立ち、人心救済にいそしんでいかなければ、「世界平和」など夢のまた夢に過ぎません。
このみ教えにご縁をいただいた皆様が、より高い志を持ち、自身がこの世に生を受けた意味、意義を再度、胸に呼び起こし、未来の子孫により良き世界をお返しするべく、現在(いま)を精一杯、生きていただきたいと切に願います。
最後になりましたが、この1年、あらためて深く感謝申し上げます。来年の元旦祭では、新たなる誓いを胸に、御宝前へと共に参集致しましょう。
合掌禮拝