会長からのメッセージ

真善美に生きる

令和6年度かむながらのみち例大祭、洵におめでとうございます。おかげさまをもちまして、この5月でかむながらのみちは立教25周年を迎えます。世の中では、企業の平均寿命が約23年、30年を超せば老舗(しにせ)とよばれるようになります。そのような意味でも、これまで私どもかむながらのみちを支えてくださった多くの先生方、諸先輩方、何よりこの4半世紀を共に歩んでくださった会員の皆々様にはひたすら感謝の思いしかありません。と同時に、その感謝の思いを如何に報恩行として形にあらわすか。私どもが神仏より与えられた責務の重さ、尊さを胸に、誇りと熱意で未来を拓く――その誓いを新たにした例大祭でもありました。

この例大祭は、本会主祭神・天五色大天空大神様のみ祭りです。毎年皆さまにお伝えしていることではありますが、天五色大天空大神とは道祖解脱金剛尊者が感得された神であり、本会では特に「大気の神」としての意味・意義を強く会員諸士に説かせていただいております。

「宇宙そのものは暗黒の世界です。しかし地球には大気があり、それを通すことによって、光は目に見える色となり、温かさとなり、森羅万象全てを育む源となります。光を我々の現実世界に顕現させるのは大気の存在です。そして大気は水を産み、水が生命を育みます。天五色大天空大神とは、いわばこの大気の神です。見えない世界のお力を、見える世界の働きへと顕現させる神です」。

この例大祭とは、天空神――天五色大天空大神様への崇敬と礼節の道を踏ませていただくと共に、常日頃当たり前のように存在する大気が如何に尊く有難いものであるかを自覚する如く、日常、平常の有難さ、命の尊さ、萬物萬霊によって生かされているという命の理(ことわり)を心中深く見つめるみ祭りとして、全国会員と共に深い祈りを捧げる場でもあります。

もちろん道祖が生きておられた時代、あるいは私どもが立教した25年前を考えてみましても、このようなネット社会、あるいはコロナ禍など思いも寄らぬことでありました。ですが今だからこそ、この天五色大天空大神がこの世にお出になられた意味、意義が痛感されるのです。そもそも人類の歴史そのものを振り返ってみても、その時代、その場所に必要な神仏が世に出られ、人々を導いていかれます。そのような意味でも、私どもかむながらのみちが頂戴した役割、使命について、会員の皆さまと今一度、この佳き日にしっかりと噛みしめていきたいと存じます。

さらに、「信仰とは真行」と道祖が喝破されたように、私どもは「生活即宗教、宗教即生活、生活離れて宗教無し」という道祖のお言葉を根幹としております。祈りだけではなく、生活そのものにこそ真行の真髄がある。ここでご教主と私の師であります故岸田英山先生が書かれたご文章で、常に私が心に置いているお言葉をここに引用させていただきます。

宗教というと、世の中の人はすぐ「何を祀(まつ)っておりますか」「何を拝(おが)んでおりますか」と聞く。主神(しゅしん)、本尊(ほんぞん)を祀り、これを拝むことももちろん宗教ではあるが、これは宗教の全部ではない。宗教の求める真の姿は、生活にあるのだ。その生活が物心(ぶっしん)共に恵まれたなら、誰しも喜びもし、有(あ)り難(がた)いと思うであろう。平素(へいそ)でも、何か予期しなかった好結果(こうけっか)が得られた時は、「有り難い」と思うのは人情である。これが普通の人間性である。この有り難いという心、すなわち宗教心である。そうしてみれば、人生、誰にでも宗教心の芽(め)はあるのだ。この有り難いという念が成長すれば、報恩感謝の行(ぎょう)に進んで行くのである。深く自己の身辺(しんぺん)を顧(かえり)みれば、自己の日常生活が、いかに多くの恩恵(おんけい)を享(う)けているかということがわかる。恩師(おんし)の教訓(きょうくん)にも三綱五常報恩(さんごうごじょうほうおん)として

 国土の大御恩
 父母の御恩
 師の御恩
 社会の御恩
 天地宇宙万物の御恩

この恩恵に深く感謝すべしと訓(さと)されている。この恩に日々報恩し、奉仕(ほうし)することが宗教心である。三綱五常報恩の根本恩に報恩感謝するのは、人として社会に、子孫として先祖に対する最も崇高(すうこう)なる道であり、この心なくして、人間たる価値どこにあるかと言うべきである。

ここで英山先生がはっきりとおっしゃられていますように、「有り難い」という心は誰にでもあります。しかしそれを祈りに、そして何より生活の中で活かさなければ、それは宗教の「真の姿」ではないのです。「報恩行」とは、何も事々しく論じるまでもなく、人として生きる本来、当たり前の姿であるわけです。

先月、その国土への報恩行として私どもは例年の如く聖地巡拝を挙行して参りました。昨年の本誌でも皆さまにお伝えしましたように、この聖地巡拝の伊勢、橿原、醍醐、泉涌寺という道程は、いみじくも古代から現在、そして神界から現界へという道行きとなっております。

まさにこの道行きが表わしておりますように、私どもの信仰――真行は、顕幽一如、見える世界と見えない世界、その双方を共に大切にし、祈りと生活を一体とする生き方、人類が何千年にもわたって培い、育んできた精神伝統文化を継承し、それを世の人々に伝道していく大切なお役目があるわけです。

神(かみ)を尋(たず)ねて

目(め)に見(み)えぬ神(かみ)を何処(いずこ)に探(たず)ね求(もと)むべきか。

それは決(けっ)してかの幽霊(ゆうれい)を見(み)るが如(ごと)く、神(かみ)の御姿(みすがた)を幻想(げんそう)し妄念(もうねん)することではない。

我(わ)れ等(ら)は凡(すべ)て現象(げんしょう)を通(つう)じて神(かみ)の本質(ほんしつ)に触(ふ)れ実体(じったい)を直観(ちょっかん)するのを本道(ほんどう)とする。

神(かみ)の本質(ほんしつ)は宇宙(うちゅう)の完全統一(かんぜんとういつ)であり、真善美(しんぜんび)の極致(きょくち)であり絶対(ぜったい)の愛(あい)と力(ちから)である、全智全能(ぜんちぜんのう)である。此(こ)の本質(ほんしつ)は神界(しんかい)の組織(そしき)により、天神地祇(てんじんちぎ)の分掌(ぶんしょう)に於(おい)て其(そ)の機能(きのう)が発揮(はっき)せられている。故(ゆえ)に宇宙(うちゅう)のあらゆる現象(げんしょう)を通(つう)じて我等(われら)はその片鱗(へんりん)を窺(うかが)い、本質(ほんしつ)を仰(あお)ぐことが出来(でき)るのである。

さて、昨年の3月より皆さまとひもといてまいりました道祖の『真行』ですが、いよいよあと数節で終わりとなります。

今回は「神を尋ねて」という一節の前半部分を引かせていただきましたが、特に「神の本質は宇宙の完全統一であり、真善美の極致であり絶対の愛と力である」という、この「真善美」というお言葉に着目したいと思います。

ご存じの通り「真善美」とは、古代ギリシャの時代から聖賢たちが人の守るべき大切な徳目・象徴として扱っており、特に18世紀ドイツの高名な哲学者イマヌエル・カントはこの真善美を基軸に主著である3大批判書をまとめ、人間にとってこの「真善美」こそが普遍的な価値であると論じました。

もちろんここで世に難解とされるカントの哲学書をひもとく余裕はありませんが、古今東西、人類が人の生きる道として大切にしてきた「真善美」、道祖はさらに大自然そのものの真理でもあると断言されたこの「真善美」は、当然私どもの会の根幹を支えるものとして受け継がれております。

それが「祈り・受容・超作」です。

祈り
祈りなくして、本当の価値ある人生は生まれません。祈りとは、私たちを生かして下さる大いなる存在、神仏との交流であり、感謝、歓び、希望、生きる力の源です。
幸せな人生の根底には、まず祈りがあるのです。

受容
今この現実は、全て自ら選び取って来たものです。苦しみや悲しみ、悩みの中にこそ、成長への鍵があります。今この現実を真に受け容れることがなければ、幸せはいつまでも遠いままです。
人生を変える力は、この受容から生まれるのです。

超作
人が真に幸せに生きるためには、小さな「自我」という枠を取り払うことです。祈りと受容によって、この世で自分が生きる真の意味を悟った時、人は自我を超え、大いなる使命のために生きていこうと決意できるのです。
これが超作であり、神と共に生きる道、すなわち「かむながらのみち」です。

(小冊子『かむながらのみち』より)

慈敬学院入門編で、常に皆さまにお伝えしていることではありますが、あらためてここに私どものみ教えの3つの柱である「祈り・受容・超作」を掲げさせていただきます。

真とは知性、「まこと」であり、うそ・いつわりのない心境。この心で「祈り」を捧げる。

神道でいえば「穢れ」のない状態へと祓い清め、そして神仏に真心からの祈りを捧げる。それが信仰生活の始まりです。

そして善とは理性であり、出来事はすべて神仏のご意思により計らわれています。何ごともすべて自分にとって、そして世の中にとっても「善き」ものであると受け止める。受容する。

これは決して簡単なことではありませんが、み教えにより真理、神理を学ぶこと、そして何より日々祈ること。それが真の受容をもたらします。私どものみ教えの根幹であります「縦横のカルマ論」は、まさにその受容をもたらす最重要の鍵となるわけです。

そして最後に「美」とは感性。「人生はすなわち1つの芸術作品である」とは、浅野信先生が常におっしゃられている言葉です。これまで被害者であった立場から、祈り・受容によって心底から己が人生は己が源、自身が創造者であると悟った時、生活そのものが「美」、すなわち生きる芸術と化します。それこそが超作の世界です。

このような真善美に生きることが、すなわち信仰生活――真行世活です。思えば人類が長年にわたり研鑽、継続してきた生き方を、あらためて今の時代にふさわしい形で世にもたらす。

私どもが目指している境地は、何も目新しいものではなく、ごく当たり前で、それでいて今の世に最も必要とされているもの。それを各自の生き方から、日々の生活から創造し、伝道、伝導し、世の人々と共に幸せになる。ただそれだけなのです。

皆さまに再三申し上げておりますように、本年11月3日・4日には、新本部道場の落慶記念式典が営まれ、全国すべての会員にお越しいただき、共に祝いと誓いの祈りを挙行したいと存じます。また、久方ぶりに会員の皆さまと会食の機会を設け、歓びと楽しみも共に分かち合いたいと存じます。

最後になりましたが、ご皇室の弥栄をご祈念申し上げ、皆様のご健勝とご多幸を至心より願い、例大祭のご挨拶とさせていただきます。

合掌禮拝

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