今月は春のお彼岸を迎え、春季理趣三昧供養が執行されます。
皆様ご周知のように、本会の理趣三昧供養は、春秋の彼岸時に会員各位が供養願う諸霊に対し、神仏両道にて浄化と鎮魂成仏の行(ぎょう)を遂行する、おそらく日本で随一といっても過言ではない法であると自負しております。
先日、本山醍醐寺の仁王会(にんのうえ)前行開白(かいびゃく)に参座すべく京都へ出向いた折、貴船神社へと参拝致しました。年頭から再三、申し上げておりますように、今年は陰陽五行の観点から見て「水」の祈りが不可欠であることから、この機会に京の水源を司(つかさど)る貴船神社を参詣した次第です。
ご祈祷を終え、同神社の高井大輔宮司としばらく歓談をさせていただく中で、宮司より神仏和合についてのお話がありました。もちろん「神仏和合」という言葉をお使いになっていたわけではないのですが、明治の神仏分離令により、いかにこの貴船神社の信仰が打撃を受けたか。日本の信仰の源には神と仏が一体となった祈りの復興が不可欠であるとのお話をいただき、昨年私が多くの神道界、仏教界の先生方からいただいていたお話と符合し、何か人間の思いだけではない、神仏からのお働きかけ、切なる願いがここにもあると実感させられた機会でもありました。
そのような意味でも、本会の理趣三昧供養という祈りの意義、価値について、会員諸士はさらに深く認識し、一座でも多く前行・本供養へと足をお運びいただきたい。
行としての観点から申し上げますと、神道は祓い浄めであり、仏教は智慧と慈悲の学びです。御霊はあの世で智慧を身につけ、悟らなければなりません。そのために、仏陀の悟りの境地を説かれた経典を読誦し、悟りへと導くのが供養なのですが、御霊に生前の情念、想念が残っていると、それが障害となり、なかなか悟りへと至ることができません。だから祓い浄めが必要なのです。
人もそうです。心が汚れたままで、いくら知識を詰め込んだとしても、それは悪知恵となり、悪の道へと進むことになります。御霊の世界も同じです。神道による祓い浄めの行と、仏教による鎮魂成仏の行、その両者が一つとなり御霊へと働きかける、この理趣三昧供養法は、執行している私自身、言葉では語り尽くせないほどの尊さ、法の力を年ごとに強く実感、体感しております。
さらに、この理趣三昧は、自身の関係する御霊ばかりでなく、公(おおやけ)のご供養についても、各自でさせていただけることに大きな意味があります。
いまだ世界中で争いはやまず、多くの人たちが尊い命を犠牲にしております。それはとりもなおさず、太古以来敵味方生霊想念無縁之御霊がおしずまりになられていないから、人類の戦いは延々と続いているのです。
もちろん、終戦記念日等で毎年、大々的に法要が営まれ続けていることは確かです。が、私ども会員は、それを日々、自宅の仏前において供養し奉ることができる――これが、いかに尊く、御霊にとって大きな力となっているか。そして、その公に対する祈りは、必ずや巡り巡って自身や家系に対する功徳として積み重なっていきます。それが「回向(えこう)」です。
道祖解脱金剛尊者は、この計り知れない祈りの理(ことわり)を感得し、この公の供養がいかに信仰者にとって必然であり、それが自身や家系の罪障をも解消する最大の徳になるのかを再三再四、お説きになられていました。私どもの理趣三昧供養には、この道祖の深い洞察による「顕幽一如(けんゆういちにょ)」のご精神があるのです。
今年のかむながらのみちのテーマ「神仏和合の祈りを極め、切なる願いで修験実証」、この「極める」という言葉を再度、皆様の胸の中でかみしめていただきたい。
そして、これも繰り返し述べているように、今年は行動の年です。
行動とは、当たり前のようですが、「言う」ことではなく「やる」ことです。
行なうとは、ただ闇雲に動くのではなく、しっかりとした意図、目的を持ち、ビジョンを掲げ、そのビジョンを実現するための目標を設定し、それを神仏に誓願、切願した上で、前に進むこと。
その際、自分のできることを、できる範囲で当たり前にやることではなく、一歩、外へ踏み出すこと。自身の安全圏から一歩、踏み越えることです。
人はリスクを背負うことを恐れます。なぜなら、その方が楽だから。居心地がいいから。しかし、それではいつまでたっても成長はなく、信仰の観点からいえばカルマ解消はありません。
自分のできる範囲の外側へと踏み出すことには、恐れがあります。痛みもあります。壁にぶつかり、苦しみ、悩み、時には失敗し、自身の限界に絶望することすらあるかもしれません。
ですが、そこにこそ成長があります。否(いな)、そこにしか成長はないのです。痛みを伴わない成長など、この世には存在しません。なぜなら、成長とは、今までの自分を捨てることだから。壊すことだから。死と再生――それが成長の理です。
「修験実証」の「験」とは験力(げんりき)であり、超常的な力、パワーを意味します。が、それは何も念力で物を動かすとか、空を飛ぶとか、そういうことではなく、ひとえに死と再生により今までの自身を超えた己に、それまで見えなかったものが見える、やれなかったことがやれる。器(うつわ)が広がるということです。その積み重ねが、いつのまにか神秘的ともいえるパワー、祈りと行動の力をもたらすのです。
今月は、あの東日本大震災が発生した月でもあります。もう14年前の出来事になり、当時の記憶も徐々に薄らいでいく。これは人として、ある意味、当然のことではあります。
ですが、あのとき抱いた想い、願い、誓いは、決して忘れてはならない。そのような意味で、あの震災発生直後、私が会員諸士に向けて発信したメッセージを今回、再録させていただきま
した(25ページ)。
当時、原発の事故により、電力がままならない中、ローソクの灯りをたよりに春季理趣三昧供養を執行しました。その祈りは、何より今回の大災害による犠牲者の御霊の鎮魂。そして人心安穏、国の平安と復興でした。
まさに「切願」でした。
そのような想いを持ち、今、日々の祈りに取り組んでいるか。生活行(せいかつぎょう)にいそしんでいるか。何より、自身の居心地のよい枠を踏み越え、成長へと歩もうとしているか――安全圏など、自身の思いとは関係なく、いとも簡単に壊されてしまうということは、あの災害で十二分に実感したはずです。
であるならば、私たち信仰者が世の先駆者となり、リスクを背負ってでも挑戦し続ける姿、その歓びと誇り、何より神仏と共にあるという確信をこそ、世の中に示し続けることが求められているのではないでしょうか。
特に、皆様に留意していただきたいことは、若い世代への声かけです。不確実性の時代と言われて久しい昨今、自分は何のために生きているのか、人生の目的、使命、そういったことを求め、私のもとへご指導に来られる若い方たちが増えています。
今の学校教育では、残念ながら、その人生目的や使命といったことへの探求はありません。いかにこの世を、うまく生きていくか。方法論は学べても、その存在理由、アイデンティティーの確立がない。そのため、かえって恐れや不安は増すばかりになっています。
今の日本において、先の旧統一教会の問題をきっかけに、「宗教」という言葉に否定的なイメージがつきまとう風潮があることは確かです。が、それ以上に、今の若い人たちは、自身の生き方、人生の目的、生きる意味を知りたい、わかりたいという欲求に飢えている。さらに、これは育ってきた文化の影響もあると思いますが、神仏、見えない世界、あるいは前世、来世ということに対しては、否定的どころか、むしろ積極的に知りたい、行ってみたい、ふれてみたいという感性を持っています。
だからこそ、私ども「かむながらのみち」には、今のこの世の中だからこそ、果たすべき役割が極めて大きいと断言するのです。神仏和合のみ教え、祈りと学びの機会を持ち、縦のカルマ・横のカルマという神理のもと、大自然の運びにそった日本人本来の生き方に目覚める、一
人一人の命を大切にする道――それが、かむながらのみちです。
そのため私自身、今までの枠や観念を取り払い、様々なことへチャレンジし続けて参る所存です。そして会員各位、そして各会場も、これまでの正しさや枠組みにとらわれず、柔軟な発想で、特に若い世代の人たちを中心とした組織作り、人作り、若い人たちが望むものは、果たして何かということを是非、意識していただきたい。
飛翔かむながらのみち――それは本部、そして各会場が共に「新生」していくことで、初めて実現していくのです。
この3月は年度末ということもあり、様々な別れ、そして旅立ちの季節でもあります。
どうかお互い様に、本格的な春の訪れを前に、自身のあり方、生き方を見直し、行動して参りましょう。歓び勇んで、前へと進んで参りましょう。
道は、立ち止まる者の前にはなく、進んでいく者の前に開けていくのです。