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新しい世界へ

「感謝」という言葉が、今ほど世界中に満ちあふれている状況は、これまであまりなかったように思います。

医療従事者の方に感謝、エッセンシャルワーカーの方に感謝、まわりの人たちに感謝、家族に感謝……。少なくとも一年前と比べてみても、何か世の中が大きく変わったことがわかります。

ただその一方で、悲しみや憎しみに満ちた声が、大きくうねりをあげていることもまた事実です。

突然愛する人の命をなくした悲しみ、行政への不満、差別に対する怒り、職をうばわれた悲しみ……

今回、人類全体が直面した危機に、世界中がはげしく感情的にゆさぶられていることを感じます。どこへ終着をもっていってよいか、わからないほど激しい何かが、それぞれのうちにこみ上げていることを実感しています。

このような危機的状況においてこそ、それぞれの人間性が試される――そのようなことがよく言われます。

但しそれは、他人の人間性を判断する材料ということではありません。あくまでおのれ自身の人間性を見つめよという意味です。他人の人間性が判断できるほど、人は賢くも偉くもありません。

人間は自分の欠点を考えないで、相手ばかりを悪く思うが、考えが違う。良きも悪しきも皆鏡であるから、相手を師とすれば間違いがない。

今この時ほど、道祖のおっしゃる「自己反省」というお言葉が胸に深くしみこむ状況はありません。

反省とは、決して自己をないがしろにしたり、否定するのではなく、自分自身を深く見つめよという意味です。普段の生活のなかできれいにとりつくろっている仮面を除いた、良きにつけ悪しきにつけ自己本来の姿を見つめ、そこから出発せよということです。

一番先に自分というものに宗教心があったら、自分というものが必ず眼につきます。自分は決して偉くないと思うようになります。皆、過信であった、己惚れであった、虚栄であったと、必ず自分の浅ましかった、過去が眼につきます。そこに真に信仰の力があります。同時に神仏の広大無辺の慈愛が立ち所に非常に有難くなります。自分の力の足りなかったこと、自分の行ないが全部間違いだらけであったこと、自分程つまらぬ人間はないと、しみじみ懺悔の境界に入る時、始めてそこからその人間としての自分が新しい世界に出発を開始するのであります。こうならなくては、神の尊さや仏の功徳を百万遍説いても、馬の耳に念仏であります。

ことあるごとに引かせていただいております道祖のこのお言葉ですが、あらためてこの時代状況の中、拝読させていただくと、それぞれに思い到るものがあるのではないでしょうか。

懺悔と感謝は表裏一体です。真の懺悔なきところに、真の感謝はありません。今、世界中が感情的に強くゆさぶられている中で、私たち信仰者にできることは、真の懺悔、真の感謝を実践する姿を見せていくことです。

そうでなければこの人類全体への警告も、単に「のど元すぎれば熱さを忘れる」程度の出来事で終わってしまうでしょう。そして、先月本誌で理事長が引用しておりましたコロナウイルスからのメッセージのように、「もっと強力になって帰ってくる」ことは、ものごとの法則からいって当たり前すぎるほど自明のことです。

自分を棄てて報恩感謝せよ、惜し気なく感謝せよ、勇敢に感謝せよ、一も感謝二も感謝、感謝報恩に奮い立つものに、幸福の訪れぬ理由はない、そこに微妙な神秘があります。

私は最近、よく思うのです。感謝とは単なる感情的な心の動きではなく、「感謝に生きよう」とする人生の選択、強い意志力に支えられているものではないかと。

自分に都合がよいからこれは感謝するけれど、これは嫌だから感謝しない。何が感謝の対象で、何が感謝ではないのか――そんなふうにものごとを分け隔てできるほど、人は賢くも偉くもありません。

むしろ、どれは感謝で、どれは不満でと、あれこれ目移りしているからこそ、人は幸せから遠ざかっているのです。いっそのこと「すべて感謝報恩で生きる」と心に決め、惜し気なく、勇敢に、奮い立つ生き方を選択するからこそ、幸せは後からおのずとついてくるものではないでしょうか。

もちろん人は弱く、心が折れ、感謝報恩に奮い立つどころか、世の中を恨んでも恨み足りない、人と関わりたくない、何もしたくない、という気持ちが湧いてくることもまた事実です。

だからこそ、神仏は私たち人間に「祈る」という行為をさずけてくださっているのです。

神仏とは、いわば絶対的に感謝報恩に生きる意志そのものです。その神仏のおかげさまで、弱く小さい私から、神仏と共にある真行者へと日々、生まれ変わらせていただけるために、「祈り」があるのです。

また、この「祈り」を共にする者同士が、一緒に分かち合うことのできる信仰の場があることが、どれだけ有難いことか、最近しみじみと感じる場面がよくあります。
お釈迦様は「抜苦与楽」というお言葉を遺されました。

苦しみを人と分かち合うことで、その苦しみは半減します。一方、楽しみを分かち合うことで、その楽しみは二倍、三倍ともなります。分かち合いとは、すなわち慈悲の精神に基づくものであり、特に在家の信仰者として最も大切な行(ぎょう)の一つが「分かち合い」です。

目の前の方の話を聞かせていただくこと。そして、今の自分自身を素直にお話させていただくこと。そのことだけで、多くの人が救われていきます。そのような場としての会合が再開できることを、私は何よりも心待ちにしております。

今の自分自身を見つめてください。今の自分自身を分かち合ってください。今このような時だからこそ、自分が何を感じ、これからどのように生きようとしているのか、自分自身を正しく見つめ、それを形にすることです。

信仰とは決して観念的な遊戯ではなく、きわめて現実的なものです。そして、この現実を真に変えうるものです。

先月、横浜の本部道場において浅野信先生による講話会がありました。そこで今この時にふさわしい神仏からのメッセージを数多く頂戴しました。

中でも私が印象的だったのが「浄化」というお言葉でした。

手洗いの奨励や換気、消毒など、すべて浄化という行為で今の世界は満たされています。もちろんそのような物理的な浄化も大事ですが、それと共に心の浄化、すなわち「お清め」「みそぎ」ということがなされなければ、やはり本質的なところまでは至れないのです。

私どもは、その心の浄化の根幹である「みそぎ」の大切さとその行法を、会員の皆様へお伝えしておりますが、やはりもっとこの「清める」という、日本人の根底にある精神的な美しさを、今この世の中に広くお伝えする使命があることを私は強く実感しました。

そして「3密から三(さん)密(みつ)」――世間で言われている「3密回避」という在り方から、真言密教でいう身と口と心の三(さん)業(ごう)を三密にする、仏と一体となる在り方へと導いていく。

何か私どものみ教えが創り出そうとする方向と、今の世の中が真に必要としている方向が、自然に一つとなっていることがあらためて先の講話会で解き明かされ、感極まる思いで一杯でした。

そのためにも、まずは会員の皆様、お一人お一人の幸せからです。自分を見つめてください。その自分を分かち合ってください。

感謝報恩に生きるという強い意志を、どうか日々の祈りの中で育んでいってください。

感謝は感謝を生み、すべてが絶対感謝の境地となる世界は、決して未来のことではありません。今ここなのです。

一方、不満が不満を生み、すべてが負の連鎖となり、恨みや嫉(ねた)み、憎しみの感情で満ちあふれる世の中になることも、決して未来のことではありません。今ここなのです。

皆さんは、どちらを選択されますか。すべては私たち、一人一人の心です。

すべては私が源であるという、み教えの根本に今こそ立ち返りましょう。

一人ではありません。信仰を共にする仲間がいます。ご先祖様もいらっしゃいます。何より神仏が常に皆さんと共にあります。

かむながらのみちとは、神と共にある道です。皆さん自身が神であるための道です。ここからが、むしろ新しい世界を創造していくための、試練と歓びの時です。
どうかお互い様に、しっかりと日々を歩んでまいりましょう。

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