教主からのメッセージ

解脱・惟神之大道

いよいよ年末となりました。今年も皆様にとって良き一年であったことと思います。

かむながらのみちにおきましても、立教20周年を迎えた記念すべき年として、10月14日、横浜みなとみらいの横浜ベイホテル東急で、多くのご来賓の皆様、また会員の方々と祝賀の式典を共にすることができましたこと、あらためて御礼申し上げます。

思えば亡き会長と共に会を創立し、これまで様々なことがありました。その一つ一つを思い返すと、ご縁ある多くの方たちからの想いがあり、支えがあり、そして今日がありますことを、これからも決して忘れてはならないと、あらためて胸に誓った日でもありました。

さて、この誌上では年頭から毎月、道祖・解脱金剛尊者のみ教えについて、少しずつひもといていくということをして参りましたが、今回はその最後として、「解脱」そして「惟神之大道(かんながらのだいどう)」というお言葉について、見ていきたいと存じます。

先に結論めいたものを申し上げますと、解脱も、そして惟神之大道も、道祖が人としての究極の生き方として尊ばれ、信仰生活の目指す最高の境地とされたお言葉ですが、その両者には微妙でありながら、決定的な違いがございます。

そしてそこに、私ども「かむながらのみち」が、この世に誕生した深い意味合いも込められているのです。

解脱は自己反省し自我没却し、最高道徳に精進すること。
人間は必ず解脱せよ、解脱せずしてこの世を渡るとは、飛んでもない無法な世渡りと私は申したい。心をほどけ、物をほどけ、「脱」ほどけぬことでは何事も出来ぬ、総てはほどけた後である。

「解脱」とは、皆さまもご存じの通り、一般的な宗教用語として広く知られているものです。

 試みに手近な辞典から引き写してみるならば、「束縛から解き放す意、仏教では煩悩から解放されて自由な心境となることをいう。インド一般の思想では、輪廻から解放されて、二度と生存世界に立ち戻らない状態に到達することをいう。(『岩波 仏教辞典 第二版』より)」とあります。

もちろん道祖も、ここに書かれておりますような意味として、この「解脱」を説かれてはいるのですが、ただ道祖は「解脱」というお言葉によって、仏教であるとか輪廻からの解放であるとか、そのような意味合いを超えた、もっと大きくて広い真理をお伝えされていたように拝察致します。

解脱は宇宙である。宇宙は解脱である。仏教は、儒教は、基督教は、一切の諸神諸仏の宗教は、実に解脱に生まれ、解脱に芽ばえ、解脱あっての釈迦である、基督である、然り万教そのものである。
天の心を地に布くをもってすなわち解脱の教えとなす。

「宗教」というと、世間一般では、教条主義であるとか戒律、何かの決まりで人を縛るもの、というふうに捉えられがちです。

もちろん戒律や道徳そのものが悪いということではありません。業、因縁、私どものいうカルマを解消するためには、やはり踏み行なわなければならない道筋、自分自身との約束である戒律、教えといったものは絶対に必要です。

ですが、その戒律や教えが必要とされた根底のところが忘れ去られ、いつしか形ばかりの祈り、形ばかりの教えが残った結果、何か信仰が「~しなければならない」「~しなかったものはダメだ」と、人を批判・批難するもののようになっていることは、残念ながらやはり事実のようです。

私自身の体験に照らし合わせてみるならば、五十年間、解脱の教えを学ぶ中で、確かに道祖のお説きになられた「自己反省・自我没却」などのお言葉は尊いのですけれど、それが自己や他人の生き方・存在の否定といったところに重きが置かれてしまい、活き活きとした人生の歓びが感じられず、果ては「あなたは自己反省しないから~」などと、人を責め立てる道具のように使われてしまう。あるいは、「私は自我の固まりだから」と、必要以上に自己卑下をして、自身の命を損ねている姿を見ることもありました。

そうではなく、宗教あるいは信仰というものは、もっと自由で、活き活きとして、そして歓びに満ちたものであるはずです。また、そのような生き方をこそ、人々に与えるのが真の宗教のはずです。

そのような中で、私は道祖のお遺しになられたお言葉で、特にその晩年に教えの中で強調されるようになられた「惟神之大道」が、胸に残るようになりました。

真に惟神の大道を体得した者は、一方面の担板漢ではあり得ない。縦横無碍な自由な行動を為し得るものであります。
宗教的根底とは即ち惟神の道にして、宇宙の大道で、宇宙の大道は至誠公、明、大の権化にして、至愛仁善正の結晶であります。
換言すれば大自然の大霊であり、宇宙の大精神であります。その大精神を人格の上に体現する時、神人一体となり天人合一となって、至誠の赤心は現われて、行くとして可ならざるはないのであります。その行為を神の行ない、仏の行ないというのであります。

これらのお言葉が、私の行くべき道を指し示して下さっているように感じました。

また、これは私の最初の著書『内なる神を求めて』にも書かせていただいたことですが、身曾岐神社の坂田安儀先生とのお出逢いにより、日本の本来の神道、大自然を教典とする命の信仰を学ぶことができ、全ての信仰の根底に「命」があるということを確信しました。

また、リーディングの浅野信先生とのお出逢いにより、本来のカルマ論――前世から来世へと続く横のカルマと、先祖から子孫へとつながる縦のカルマ、この縦横のカルマの流れの中心に今の自分があり、そしてこの世のすべては他ならぬ自分自身の命の成長のためにあること。そのための教えであり、出来事であり、また先祖供養などの祈りも、そのためにあると学ぶことができました。

特に浅野先生のお言葉からは、いわゆる解脱――これまでの宗教が重んじた因縁解消、みずからが持つ業に向き合うだけの行、戒律、教えよりも、むしろ自身の命を活かすべきところで活かし、人生の歓び、使命の遂行という中で、おのずと因縁、すなわちカルマも解消されていく。それがこれからの時代に求められる新しい信仰の姿であるという考え方に、私は目が啓かれたのです。

 仏教では「囚われないように」ということが、教えで強調されます。我執がカルマと転生の元凶である、と。愛情や欲望や感情に関して、執着しやすいのが人間だからです。恐れとか不安、悲しみとか憎しみ、妬みとか怒り、そういった否定的な感情に囚われ、また欲望にも囚われやすいからでしょう。
 しかしそのような感情や欲望を昇華し、発展解消させると、生命エネルギーが清められ、活きてきます。「執着をなくす」という教えよりも、人間を信頼し、自分に対しても人に対しても、より良いほうに生命エネルギーを振り向けて活かしていくほうが、望ましいです。
            (『インターフェイス』令和元年10月号より)

もちろん、これまでの信仰で培われてきた「解脱」――因縁からの解放、カルマ解消のための行、戒律、教えは大事です。ですが、それがいつしか人を責めるもの、あるいは自分で自分をも責めさいなむものとなるのでは、本末転倒に他なりません。もっと自分や人々が活き活きして、命の歓び、歓喜大躍進できるものが信仰であるはずです。

「カルマの次元だけで終始せず、愛と命そのものに生きることで、カルマを超えていけます。それが本当の超作です」。(同上)

浅野先生のおっしゃる、この「超作」と、道祖がおっしゃられていた「惟神之大道」とは同じではないか。しかも、それは私が身曾岐神社で学んだ、日本人が本来、持っていた命の信仰そのものに他ならないのではないか。

さらに道祖、そして私の直接の師である故岸田英山先生も学ばれた真言宗醍醐派總本山醍醐寺、その真言密教で説かれている教えの真髄も、まさにこの人が持つ愛情や欲望を積極的に捉え、そのエネルギーを肯定的な方向へと「昇華」させることにあるのではないか――
そのように、私の中で全てが一つとなった時、道祖のおっしゃられた「惟神之大道」を、今の時代にふさわしい、新しい在り方で世に出そう。しかも同時に、それこそが日本人が古来より大切にし続けてきた生き方でもあるという意味合いも込め、ひらがなで「かむながらのみち」という教団が誕生したのです。

そして平成11年(1999年)5月5日に、この岡村の地で立教して20年が経ち、今では多くの方々が、この「かむながらのみち」という道を共に歩もうとされています。

私は、時折思うのです。人は何かに縛られ、何かにすがって生きたほうが、むしろ楽なのではないか。そのため、世のあらゆる宗教家が苦難の末に見出した、それぞれのみ教えにしても、次代へと継承されていくうちに、人生を縛る「宗教」として形骸化してしまったのではないか。

それに対してこの「かむながらのみち」は自由、命の躍動、歓びを大切にして、何ものにも縛られないことを根底にしているため、かえって世の中には伝わりにくいのではないか。教えそのものは簡潔で、行も決して難しいものではなくとも、その真髄は決して言葉だけでは伝え切れないものがある。

けれども、道祖もこのようにおっしゃられていました。

「解脱は一瞬にしても出来るし、十年学んでも出来ないものは出来ない。」

私自身、道祖と同じものを見ているなどとは決して言えませんが、少なくとも道祖が目指されたもの、道祖が人々に本当にお伝えしようとされたものを、今この時代、この場所においてさせていただいている――その確信を胸に置き、これまでこの「かむながらのみち」をお伝えし続けて参りました。

そして、これからも命ある限り、多くの方へと、信仰を持った人生の真の歓び、誇りと確信、生き甲斐と達成感、そのようなものを伝え続けて参りたいと思います。

特に、これからの未来を担っていく若い世代へと、信仰の情熱、人を救い導くためのチャレンジ、そのための成長ということを、育んでいきたいと思っております。

全ては人創りです。人があって、教えがあり、そしてこの「かむながらのみち」があります。

多くの方々とのご法縁、見えない世界からの後押し、そして何より神仏からのご加護が、ひしひしとこの身に感得されます。

かむながらのみちとは、多くの命と共に生きる道です。ご縁の中に生かされていると、真に歓びをもって確信できる道です。

この一年、本当に良き年であったと思います。これから年末に向け、さらに自己を磨き、反省し、そして精一杯、自己の命をお使いいただき、そして新たな年の始まりには、共に大いなる誓いを胸に、神仏の前で祈りを捧げたいと存じます。

最後になりましたが、この一年の御礼を申し上げますと共に、それぞれに良き年をお迎えされますよう、ご祈念申し上げます。

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