教主からのメッセージ

絶対感謝

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5月1日より「令和」という時代が到来し、その直後の5月5日、私どもの立教20年を祝う祭事が横浜本部道場において営まれました。

5月19日に行なわれた例大祭では、多くの皆様と共にこの新しい時代の幕開けを祝い、神仏のもとでそれぞれの感謝と誓いの念を新たにすることがかないました。

そして先月、6月23日には北海道札幌市の北海道神宮頓宮(とんぐう)において、北海道講演会「新時代の到来 あらたな自分の発見」が催されました。

北海道布教イベントとしては7回目となりますが、今年はさらに甲信、神戸、富山、名古屋、東京、奈良、そして来年には横浜へと広がるイベントのスタートとして、全国会場からも多くの会場主、副会場主、会員の方々が集い、会場は熱い想いと願いに満ちたものとなりました。

人が自分自身や他人、周りの環境に対して、真剣に考え、そのことを他人と分かち合うことは、単なる日常会話のような「話す」ということ以上の、心の躍動というか、あらたな発見や気づき、目覚めが生じます。

それを「浄化と再生」と呼んでも、さしつかえないことと思います。

まして、普段から神仏のもとで祈りを怠らず、自身の命を精一杯お使いいただこうという会員の皆様が集い、真摯な想いで準備を重ね、場をしつらえ、そして臨んだ空間には、神仏のお力が確実にお働きくださっています。

そのような場にいるだけで、ゲストの方はもちろん、会員の皆様も、それぞれの場で活きる力と希望が心の内から自然と湧き出てくるのではないでしょうか。

そのようなお力を背に受け、「浄化と再生」の道を真剣に歩まれている皆様のお姿を私も目にし、またこれからも全国の会場でそのような光景を見ることができることを思うと、かむながらのみちが発足して20年、ここまでの歩みが決して間違いではなかったと強く実感するのです。

さて、今年の初めから道祖のお言葉をもとに、み教えの根幹を皆様にお伝えする機会として、この原稿を書いておりますが、今回は「絶対感謝」というお言葉について、皆様と共に受けて止めていきたいと思います。

解脱は絶対感謝の生活である。
困難に感謝せよ。有難しと言うことは難有りと書くのだ。

「絶対感謝」とは、文字通り全てにおいて絶対的に感謝であるということ。

嬉しいことも、楽しいことも、苦しいことも、辛いことも、悲しいことも、全てに平等に感謝であるというのが、この道祖の「絶対感謝」という言葉の意味になります。

これが私たちの理想であり、この絶対感謝に生きることを目指して祈り、行じ、また日々の生活にいそしんでいるわけですが、ただここで一つ皆様にお伝えしておきたいのは、この絶対感謝という境地は、そう生き「ねばならない」とか、絶対感謝で生きなければ「ダメだ」とか、そのようなものでは決してありません。

誤解を怖れずに敢えて言うとすれば、絶対感謝というお言葉は、そのような低い心のレベルで扱っていただきたくはないのです。

真剣に道を求むる人間の前には、全世界の現象は全て生きたる経典であります。

私たちが在家の信仰者として日々の生活を「行」として取り組んでいるのも、ひとえに日々の様々な事柄にこそ、神意・仏心が込められているからだという認識に他なりません。そのような認識のもとに、あらゆる日常茶飯事を勤めていくところに、このかむながらのみちを歩む者の姿があります。

しかも神意・仏心は、嬉しいこと、楽しいことよりも、むしろ辛いこと、苦しいこと、決して自己の思い通りにならないことにこそ、強く神仏やご先祖様の願い、ご意思が込められていることが多いのです。

だからこそ、人生の苦難に出会った時、会員の皆様には指導という場において、そこに込められた神意・仏心を確かめ、自身の行くべき方向を見直し、神仏の意に沿った道を歩むことを大切にしていただいております。

また、神社での行や初学、ご指導を通じてのご自宅での行や、会合における一言メッセージなど、様々な形で神意・仏心にふれ、感得し、そして行じる機会を設けております。

見えない世界からの深い思いと祈りを忘れずに、日々の人生に活かしていくことこそ、このかむながらのみちを歩む者と言えるのです。また、そうでなければ、単なる烏合(うごう)の集団ともなりかねません。

会の中心に、そして自身の人生の中心に、いったい何があるのか。そのことを折々に、どうか真剣に思い起こしていただき、日々の生活行に取り組んでいただきたいのです。

そのような人生修行を繰り返していくことにより、何が得られるのか。

それが「感謝」に他なりません。

感謝、感謝と口では簡単に言うことはできますが、真に感謝を感得することが叶うのは、その日常の背後に神仏やご先祖様の思い、願いを感じ取れたときだけだと言っても過言ではありません。

この「感謝」については、また稿を改めて皆様にお伝えしたいと思いますが、どうか皆様には感謝の心を自身の中に育んでいくことを、もっと真剣になって取り組んでいただきたいのです。

その高まりの果てに、自身の中に自然と、思わず知らず湧いてくる境地が、すなわち「絶対感謝」に他ならないのです。

故に、絶対感謝とは義務でも規範でも、ましてや誰かの人生を批判する材料でもありません。この道を歩む誰もが目指していただきたい究極の境地であり、そこに至れば必ずやこの人生に歓びが満ちあふれるという、人生の理想であり「希望の源」なのです。

私の師であります岸田英山先生のお言葉を、ここに引かせていただきます。

「感謝の念は一転して、非常な勇気を振い起こして奮闘力の新生活に至るのであります」と尊者のお言葉にもあるように、絶対感謝の念に徹すれば、いかなる悪条件の世に住んでも、断じて侵されることのない真正の幸福が保持できるのです。
なぜならば、絶対感謝の念から迸(ほとばし)る至誠はそのまま神意に直入すると共に、神意は威神力となってわが心身に転入するからです。これが解脱の妙理であり、仏法の極意でもあるのです。
「解脱せざれば何事も成就せず」とおおせられた尊者のご深意が身に染みて感じられることでしょう。
(岸田英山『誠 時世を担う人びとに』より)

私自身、これまで齢(よわい)を重ねて参りましたが、この年になりようやくこの「絶対感謝」とは、このような境地であるのかと実感できるようになって参りました。

もちろん、若い頃とは違って自分自身が動くことは少なくなり、現場に身を運ぶということもあまりできなくなりましたが、それでも家庭のこと、会のこと、会員の皆様のことを思わぬ時はありません。

けれども、それがたとえ自分の思いにそぐわぬことであったり、ややもすれば感情的になる場面もありますが、必ずやそこにこそ神仏の尊いご意思が込められておりますことを、まるで心の底から自然にわき上がるように感じることができます。

そのような時、出てくる言葉は、ただ「ありがたい」という感謝の言葉です。

日々をこのような感謝の心で受け止め、祈り、そしてまた家族の長として、会の責任者として、そして何より会員の皆様の師としての務めを果たさせていただくと、自然とものごとが運ばれていきます。

これが若い頃には決して得ることのできなかった安心の境地なのだと、そのような気がしております。

もちろんここに至るまでには、様々な苦難がありました。けれども、それも全て自身にお与え下さった神仏からの尊い行であると受け止めることができます。また、そのことを会員の皆様だけではなく、多くの方々にそのままお伝えしたい思いで一杯です。

どうか、今の自分自身をしっかりと見つめて下さい。その奥にある神仏の尊いご意思を、どうか受け止めることができるよう、日々真剣に祈られて下さい。

全ての人生体験は、皆様の尊い糧(かて)です。苦難に出会えば出会うほど、人は成長し、器が大きくなります。

「なんで、自分ばかりこんな目に……」と思っておられる方ほど、どうかその苦難から逃れずに、しっかりと心を据えられて下さい。

私もこの年になってようやく、神仏の有難さが心の底から実感できるようになりました。まだまだ、これからです。必ずや皆様も、まさにこの今生において「絶対感謝」の境地に至ることができます。そのための教えです。そのための学びです。そのための祈りです。そのための人生修行です。

ここから全国へと広がる布教の輪が、多くの方のお幸せと、そして世の中の平安へとつながっていくことを確信して、全身から歓びをもって歩んで参りましょう。

この道は神の道です。神と共に歩む道です。

温かい心と希望を胸に、お互いに高め合って参りましょう。

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